6月3日、箕の日に勝手に協賛です。
コンペイトウのビンを見ようと、久々に『モースの見た日本』(小学館、1988年)を見ていたとき、農作業の写真が目につきました。
脱穀のとき箕を使っています。
昔は、2分ほど停止していなくては写真が撮れなかったので、ちょっと不自然なところもありますが、箕も使いながら千歯扱ぎで脱穀している様子が見て取れます。
ちなみに色は、白黒写真の上に手彩色したものです。
元禄時代に千歯扱ぎが発明され、それまで1穂1穂しごいていたのがぐっと能率が上がり、以後、足踏み脱穀機ができるまで、長く使われました。
同じくモースの『百年前の日本』(小学館、1983年)にも箕の写真が載っているかと見てみると、
「あれっ、この雰囲気なんだか見覚えがあるぞ」
そう、千歯こきを並べて脱穀している写真と同じ家の軒先でした。
この写真では唐箕が使われていて、脱穀したお米からごみを取り除いてきれいにしているところ、箕が活躍しています。
お米を俵詰めしているところでも、箕が使われています。俵に詰めるために竹のじょうごも使われています。
ところで、モースが日本に滞在した130年前、日本にはどんな風景が広がっていたのでしょう。
これは東京銀座の写真、路面電車が走っています。電信柱が立っていて、電気が通じていることがわかります。
モースは日本国中を旅しましたが、これは箱根の関所があったあたりの写真です。
東京銀座に比べると鄙びていて、電気は通じていません。ただ、遠くの山頂に立つ四角い建物が気になります。
街道筋にはまだ駕籠かきもいました。
小学校の教室。
こうして当時の写真を見ると、130年という歳月はとても長いものにみえます。
さて余談です。
『百年前の日本』に、横浜の町家でこいのぼりを揚げている写真がありました。こいのぼりはもともと武家のものでしたが、明治期に次第に町人にも広がります。
そして、竿のてっぺんについているのはなんと籠玉です!籠玉は茨城県と福島県(の茨城県との県境に近い地域)の太平洋岸だけに見られると読んだことがあったのに、横浜でも籠玉が使われていたとは.....。
もしかして大発見でしょうか?
籠玉は、茨城から横浜に海路で運ばれたものでしょう。大きなものなので、陸路で運んだととても考えられません。
東京のこいのぼりの写真もありましたが、てっぺんには籠玉ではなく、矢車でもなく、竹箒を逆さにしたようなものがついていましたがよく見えません。
そこで、検索してみると、
![]() |
ビコロアート教育 絵画教室 国分寺スタジオのブログより |
こんな絵がありました。出典は『時代風俗 考証辞典』(林美一著、河出書房新社、1977年)です。
追記:
かねぽんさんが、箱根の宿の写真の奥に見える山の上の建物は、皇室の箱根離宮だったと教えてくださいました。
![]() |
文化遺産オンラインより |
「箱根宿から箱根離宮」を望むと検索していて、この写真を見つけました。
関東大震災後の箱根宿の様子、半分が全壊して町が変貌したとありますが、地震の爪痕はそう見えません。ただ、モースの見た30年前と比べると、茅葺きの家はほとんど消えています。
関東大震災は1923年(大正12年)で、箱根離宮は1929年(昭和4年)に解体されたので、その間に撮られた写真だそうです。
4 件のコメント:
おはようございます。
箱根の写真にある遠くの洋館、僕も気になったので調べてみたら、どうやら皇室の「箱根離宮」と呼ばれた建物らしいです。
残念ながら関東大震災で被害を受けて、今は無いそうです。
かねぽんさん
箱根離宮だったのですか。道理で風景一望の場所に建っています。
ありがとう!気にはなったけれど、調べようなんて思いませんでした(笑)。
四角いので遠目にはコンクリート造りに見えましたが、木造だったのですね。関東大震災の後、被害を受けた箱根離宮が取り壊されるまでの間に撮影された箱根宿の絵葉書があったので、追記しておきます。
モースが見てから30年、宿の建物はすっかり様変わりしています。
箕の日協賛ありがとうございます!シェアさせて下さい。
あまよかしむさん
こんにちは。
種がつきかけているところがありますが、何とか今月も箕の日に協賛できてよかったです(^^♪
どんどんシェアしてください。知れば知るほど、箕は本当に大切だったもの、おそらく農家以外の商家などにもあったもの、日本人の生活になくてはならないものだったとの感を強くしています。
コメントを投稿