2014年7月31日木曜日

高いところに登っています


作業棟は、高いコンクリート柱二本に、トラスに組んだ梁を乗せて、室内で4メートルの材木を扱えるような、大きな空間を確保しようとしています。

もっとも、作業棟ができた後で、そう大きな材木を扱うかどうかという疑問はありますが、おがくずなども飛びますし、作業場は広いに越したことはありません。
これができると、いままでビニールハウスの仮置き場にある機械類や材木を全部収めることができて、農具をしまう納屋もできます。


低い柱や垂直基礎など、下の方の作業が終わり、高いところの型枠もつくり終え、今週から組んでいます。
この段を組み終えたら、もう一段でおしまいです。
基礎に取りかかったのは地震より前ですから、なんだかんだコンクリート工事は時間がかかります。


ちょっと曇っているけれど、絶景かな、絶景かな。


なんて、落ちないように気をつけなくては。
今年の秋に棟上げできるかなと思っていましたが、柱を打ったあと、土間も打つので、上棟は来年になってしまいそうです。



2014年7月30日水曜日

コンボクッカー


以前、Mさんにいただいたコンボクッカーです。
Mさんは、古い友人Tさんの弟さん、家を建てる材木をプレカットという方法で刻みを入れようとしたときに、Tさんから弟さんがプレカット屋さんで働いていると聞き、工場にうかがってお話を聞いたり、家に来ていただいたりしたのです。
お世話になった私たちが何か差し上げるならともかく、Mさんからこんなお土産をいただく理由がないと固辞すると、
「ネットで通販やっていて、返品されたものだけど、使うのには支障がないかなと思って」
とのこと、それならと遠慮なくいただきました。


もともと、蓋はこのように開けたままにできるのか、できないのか、このお鍋に関しては手で支えないと閉まってしまいます。あとわずかに後ろに倒れると自立するので、これが欠陥の一つかもしれません。
また、蓋をしめて一点を押してみると、動いてカタカタ音がするところがあります。
実際に使うのには支障がないとしても、買った人がクレームをつけるのも、やむをえないかもしれません。


まだ、仮設のビニールハウスに住んでいた頃は、オーブンもなかったので、コンボクッカーの出番がたくさんありました。
肉と野菜を切って塩胡椒し、ときにはいろいろとスパイスも利かせて、全部をボウルやビニール袋に入れて、オリーブオイルも加えて混ぜ合わせ、それをコンボクッカーに入れて、火にかけてさえおけば、おいしいおかずができました。
ジャガイモやかぼちゃをたくさん入れると、一品で主食兼おかずにもなりました。

今でも、夫がテラスでてんぷらを揚げる時は、必ずこのお鍋を使います。大きいので油の温度が一定に保たれ、よく揚がるし、何より、お鍋の後始末が簡単なのです。


コンボクッカーはアメリカのロッジ社製、分厚くて重い鋳物でできています。
ロッジはダッチオーブンの製作で有名、ダッチオーブンは戸外で、薪で料理するためのお鍋ですが、それを室内用にしたのがコンボクッカーです。

この頃、いただきもののジャガイモが溢れている我が家では、毎食のようにジャガイモを食べています。
先日、久しぶりにジャガイモパンケーキをつくりたいと思い、コンボクッカーを引っ張り出しました。
ジャガイモは細い千切りにして塩胡椒、オリーブオイルも混ぜて、それを鍋底に押しつけるようにして敷き詰めます。そして、蓋をして火に掛けます。
途中、蓋をしたまま上下をひっくり返して、表面もしばらく焼きます。
また元の位置に戻して焼いて、火をとめてしばらく蒸らしたら出来上がりです。
つなぎを入れないので、固まりにはならないのですが、独特のおいしさです。これが主食、おかずは別につくりました。


長年使っているフライパンもロッジです。年とったら軽いお鍋が使いやすいというのに、どちらも重いこと。
それでも重いだけあって、いい仕事をしてくれます。




2014年7月29日火曜日

ゼンマイ仕掛け


ソヴィエト時代につくられた。ゼンマイ仕掛けのマトリョーシカです。
形もよく、色も素敵ですが、何故か腕組みしています。
おばあちゃんならいざ知らず、腕組みしている娘なんて、普通つくらないでしょう?


ゼンマイを巻くと、まっすぐ進み、くるくるっと回って、また直進します。
バレリーナとは全然体型が違い、青いサラファン、赤いプラトーク、黄色い前掛け姿の田舎娘マトリョーシカですが、バレーをイメージした動きなのかもしれません。


ゼンマイを巻く音は不思議、ジージーうるさいのに、いつ聞いてもわくわくします。


前にも紹介したことのある、ゼンマイ仕掛けの招き猫です。
マトリョーシカより複雑な形だからか、首のあたりにも耳のあたりにも皺ができています。
もっとも、古いものは一つ一つ丁寧につくっていたけれど、これは新しいものですから、機械任せで手を省いていて、それで仕上がりが汚いのかもしれません。


ゼンマイを巻くと、手を上下させ、目をぱっちり開けたり笑ったりします。
というより、手と目が連動しているので、手をたくさん動かさせるために、目が動き過ぎるのでしょう。目の表情を三種類つくっておけばよかったのに二つしかないので、白眼を剥いてしまいます。


あと、一工夫でしたね。


ビリケン商会と書いてあり、底にはJAPANとあるので、日本製のようです。


熱い夏は、こんなおもちゃで、ジージー遊びながら乗り切ります。



2014年7月28日月曜日

お正月飾り


しばらく前に、骨董市で昔おもちゃのさわださんから買った、お正月飾りです。
ほとんどは土でつくったものですが、四角い千両箱、大福帳、さいころは木でできています。
吊るす糸が切れたり、短くなったりしているものが二つばかりありました。

これは正式にはなんというものだったかしら?
まゆ玉ではないし、私は勝手に、ピラピラと呼んでいたような気が。

珍しいことに、私が手に取って見ていたら、値段連発のさわださん、負けないさわださんが独り言で勝手に値を下げて、三分の一の値段にしてくれました。
「昔のだよ。いいでしょう。まあ、3,000円欲しいんだけどなぁ。負けて2,500円だな」
「.....」
「十個あるでしょう。うぅぅぅぅん。2,000円にするよ」

私の学生時代ですらすでに、酉の市などで売っている熊手の飾りものも、お正月飾りにぶら下がっているものも、完全手づくりの、味のあるものは見かけませんでした。
印刷した紙を成形したもの、ただの紙、プラスティックなどなどで、土を流し込んででつくったものもあったかもしれませんが、その上にプリントした紙を貼ったりしていて、手描きではなかったような気がします。


お正月飾りなら、オカメザサでしょうか。
 

ぶら下げてみました。


箱に入っていたときの方がかわいかったかなぁ。


でも、せっかく飾りつけてみたのだから、当分はこのまま楽しんでみます。
いったい、どの地方のものだったのでしょう?京都か東京のような気がします。


2014年7月27日日曜日

気遣いと、「みんなと同じ」心理の引き起こすこと

先週の日曜日に、岡山博氏(元仙台赤十字病院医師、東北大学臨床教授。現在はお辞めになっています)の「放射能の影響とこれからのこと」という講演を聞きに行きました。
あまりの内容の重さに、数日は打ちのめされていましたが、やっと元気を取り戻してきたところです。

岡山氏は、ときどき自分の考えもはさみましたが、多くは事実を述べられただけでした。それを聞いていると、原発事故時から今日の放射能拡散まで、対応の遅れに日本人気質が大きくかかわっていることがよくわかり、はたして今後、この問題に最善の方法で対処できるのか、もっと悲惨なことが起こってやっと気がつくのか、深い絶望感にとらわれてしまいました。


まず、爆発時の対応です。 
福島第一原発4号機の爆発のおり、遅ればせながらではありましたが、半径20キロ以内に住む人に、「避難せよ」という指示が出されました。しかし、20キロ圏外の人には、「家に留まるように」との指示が出されました。
これは、20キロ圏外の人たちの「不安をあおらないため、混乱に陥らせないため」ということでしたが、これによってたくさんの人たちが、無用に被爆しました。
当時、じつは一号機もいつ爆発するかわからない状態にあったそうです。幸い、一号機の爆発は何とか回避できましたが、もし爆発していれば、多くの方が被爆どころか犠牲になっていたでしょう。
表向きの指示はそのようなものでしたが、東京電力内部では爆発の前から避難指示があり、東電の家族たちは、爆発時にはみんな逃げていたそうです。

爆発時にアメリカが半径80キロ圏内の避難指示を出したことは記憶に残っています。ところが諸外国の中では、アメリカは、「政治的に配慮して」もっとも甘い対応をして、80キロだったそうです。そして、表向きは80キロ圏内でしたが、内々(アメリカ人)にはもっと厳しい対応を指示して、たくさんの人たちがそれに従って、国内外に避難しました。

確かに、真実が隠されていた状態でさえ、ガソリンはなくなり、大きい道は避難する人の車が溢れ、身動きが取れなくなりましたから、20キロ圏外の人も避難となると混乱をきたしたと思われます。しかし、その混乱の回避の方法まで事細かに提示し、あるいは事故以前から、原発の周辺ではこのような事態を想定しておいて、逃げることを奨励すべきでした。
飯館村に住んでいた私の友人は、幸い外国のメディアの情報をキャッチして、幼児三人を連れていち早く逃げました。しばらく経ってから、原発から遠く離れた飯館村が、じつはホットスポットだったことが周知されました。 


次に、汚染された福島の農林水産物の処理の問題です。
岡山氏は統計を数字で示していましたが、驚くことに、福島県産の農林水産物の売り上げは、事故があった年も、その前年の売り上げとほぼ同じでした。
(一部の)個人消費者から購買を敬遠された福島の農林水産物は、「不安をあおらないため、混乱に陥れないため」に「福島県産」という表示の多くを、「国産」、あるいは「太平洋産」という表示に変えました。
汚染された農林水産物を「残さない」ことは命題となり、外食産業に使われ、加工食品にされて、日本全国に売られた結果、残らなかったのです。

汚染された食品の消費の、もっとひどい例は給食でした。
福島県内の小中学校では、「郷土の食材」を使うことが奨励され、教師には「放射能の影響」という言葉を語ることを封じました。
給食の食材が汚染されていることを恐れてお弁当を持たせようとする親には、「給食は教育の一環である」として、お弁当を持ってくることを禁止しました(今は持って行けます)。そして、残してはいけないと、子どもたちに「完食」を強要しました。
それでも抵抗する親には「モンスターペアレンツ」というレッテルを貼り、「精神科へ行って診てもらえ」と言われた人さえいたそうです。
学校給食に福島産の農林水産物を使うことを拒否しようとした、心ある自治体には、他の予算を回さないといった手段で対応し、結局子どもたちに食べさせざるを得ませんでした。また、パンの原料の小麦も、「外国産」ではなく、「国産(=福島産)」を使うことが義務づけられました。

今回の事故では、チェルノブイリの影響についても参考にしているはずです。ところが、参考は影響をはっきりと断定できる小児がんの増加だけに絞り、それ以外は、「証明が不十分だから」と、参考案件にも乗せず、切り捨てています。
数年後にいろいろながんなどの病気が増えたとしても、「放射能の影響とは断定できない」と切り抜けるつもりでしょう。

    
もう一つは、これからのことです。
事故が起こった日、多くの時間は西風が吹いていて、放射能は海の方へと運ばれ、その後風が変わって、周辺各県が汚染されました。例えば、宮城県の稲わらが汚染され、それを食べた牛から高濃度の放射能が検出された例などがあります。
この汚染して廃棄せざるを得ないものは、各県に汚染物質処理場をつくって対応しようとしています。そして、一番廃棄物の多い福島県では中間処理場をつくっていったん処理し、その後県外に最終処理場をつくって運ぶ計画だと発表されています。
その最終処理場としては、各県の、地盤の固いところ、「石切り場の跡」などが狙われています。

その廃棄物は、危険極まりないものです。
他の原発や大学の研究室など、放射能汚染物質を扱う場所では、通常100ベクレル/kh以上の放射能廃棄物の処理は、許可を持った者だけが厳重に行なうことが義務づけられています。ところが、今回の事故で生じた廃棄物の放射能に関しては、その基準では処理しきれないからと、三年の時限立法をして、8000ベクレル/khまで、一般ゴミとして処理していいことになっているそうです。それは今年の8月まで有効ですが、この分だと延長されそうです。
考えられないことです。
これら、核廃棄物の拡散に対して、岡山氏は一ヶ所に集めるべき、福島県にある原発から出たものだから、他県のものも福島県に戻すべきだと考ています。
つまり、原発から半径20、30キロ地域には、除染をして戻れるかもしれないと、かつて住んでた人たちを励ますのではなく、「もう帰れない」と宣言して、汚染物質をこの中に集めるべきだとの考えです。
  
いま、仮設住宅で宙ぶらりんに暮らす人に、「元の家に戻りたいですか、それとも新しい生活をはじめたいですか」とたずねても、多くの人が「戻りたい」と答えるのは当然です。代案が想像できないし、提示もされていないからです。それを聞いて、「年寄りを生まれ故郷に返してやりたい」というのが、若い人の悲願になっていたりします。
農業従事者の生活の再建は、勤め人のそれより難しいかもしれません。
でも、私が農村でかいま見るかぎり、農村では無人の家が増え続け、耕さない畑が増え続けています。「元の村の全員で一緒に住みたい」と言わなかったら、数軒ずつなら、積極的に動けば、どんな農村でも被災者の受け入れは可能だと思います。

以前住んでいた人たちには、他で生計を立てられるよう、最大限の努力をすべきで、放射能をこれ以上拡散すべきではないという岡山氏のお考えに、私もまったく同感です。

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今、「福島に住めない」、「福島を捨てよ」は、禁句になっています。
多くの「心ある人たち」も、福島に出かけて人々を励まし、そんな人たちは、「福島に行っていない人」を、あからさまではないけれど、非難がましく思っていることさえ感じられます。
ところが、福島に行って、「かわいそうですね」と言えば、少しは自分自身を慰められるかもしれませんが、福島の人をさらに汚染された地に縛りつけることになるのです。

これは、太平洋戦争中に、「日本は負ける」と言えなかった雰囲気とそっくりです。「お国のために頑張ってください」と言うのとも似ています。
傷には触らないで、事なかれで表面を平穏そうに保つ。傷をなめ合う。そんなことを続けているうちに傷は深くなります。

テレビドラマなどで、戦時中の隣組などの無知ぶりを滑稽なものと笑いながら、現実にはあれと同じことをしています。今頃になって、東京大空襲のとき受けた損害を政府に補償しろと訴えた人がいると新聞で読んだときは、笑いたくなりました。昔のことを、「他人のせい、政府のせい」だと訴えるより、その人は今の自分はどうかと、自問自答すべきです。
今、日本の製造業は日本以外の国々で多くが行われています。「やらせてやっている」のではなく、「自国ではやれない」のです。そんなことも考えず、さらなる繁栄の持続を求めて自民党を支持している人たちのことを無視しておき、「自分は正しいけれど、政府が悪い。国民は正しいけれど、政府が悪い」と考えるのは間違っています。
政府は国民を映している鏡です。

岡山氏は、講演しても講演しても成果の少ないことに落ち込みそうになるけれど、やはり続ける以外ないと思われているようでした。
何をすべきか、一人ひとりによく考えて欲しいという言葉が印象に残りました。
都会で暮らすことをやめただけでなく、他に何ができるか、しっかり考えてみたいと思います。





2014年7月26日土曜日

チェTシャツで考える

以前、我が家に飾ってあったチェ・ゲバラの写真を見て、「今度、Tシャツをあげるからね」
と言っていたGHさんから、キューバ土産のTシャツをいただきました。数年前に、お連れ合いが囲碁の指導だか大会だかで、キューバにいらっしゃったのです。


鮮やかな赤いTシャツでした。


木綿で素材も縫製もしっかりしていて、しかもたっぷりサイズです。


数日後、八郷の地でもう二十五年も続いているという読書会の面々がいらしたとき、GHさんもいらしたので、さっそく着てみました。着心地は満点です。

問題は洗濯、赤はよく色落ちします。というのは色どめが難しいからです。
化学染料の色の中でも、とりわけ色落ちしやすいのは、赤と黒です。ちょっと前まで、陽にあたったり、洗濯を重ねたりして背のあたりが白っぽくなった赤い服や、茶色、あるいは羊羹色になった黒い服を着た人を見かけたものですが、今ではまったく見かけなくなりました。

色どめの技術は進んだのですが、堅牢に色どめできる染料は、環境を汚染する有害薬品として、日本国内では、1970年代から使用禁止にされています。
以前、横浜をはじめとして日本にたくさんの染色工場があった頃は、川の汚染が大きな問題でした。やがて染色工場は韓国や台湾に移設され、さらに中国、東南アジアへと移設され、日本の染色工場はほとんどなくなり、川の水はすっかりきれいになりました。
ところが、染色工場のつくられた地域の水は、今でも汚染され続けています。

日本の川の水が激しく汚染されていたのは1970年代までで、今では当時とは技術も違うし、設備を整えれば汚染された排水を川に流さないで済むと考える人もいるかと思います。
ところが染色工場は、中小の規模のものがおもなので、汚れた水を処理する設備を備えることは、まず難しく、安全で色落ちしない染料もつくられていないのです。
というわけで、赤や黒の色どめを堅牢にできる化学薬品を使うことが、日本では法律で禁止されながら、巷には色落ちしない赤や黒が溢れていますから、地球上のどこかの川が汚れていることになります。

このTシャツも色落ちしませんでした。
色落ちしないでよかったのですが、複雑な気持ちです。その陰で水や土が汚されていることが確かなのですから。
ラベルを見たらアルゼンチン製でした。







2014年7月25日金曜日

掃除の仕方

いつも、家仕事は適当、目についたところからしていますが、人さまをお迎えするときには、見苦しくない程度に草をむしっているか、部屋にクモの巣は張っていないかなど、一応全体を見渡します。

ところが、それでも予期しなかったところを披露したりすることもあり、指差した先にばっちりクモの巣が張っていたり、ずっと開けなかった窓を開けて見せたら、サッシに埃がたまっていたりと、思わぬ事態に赤面することもあります。

きれいにしていれば、目立たなくて印象にも残らないけれど、汚いと妙に目立つもの。できるだけ荒んだ印象にならないよう気をつけていますが、手が回りきれないところもあります。
背の高い人にお料理をしてもらったら、レンジフードに頭が届いて、そこにくっついていた油が髪についてしまったこともありました。

最近、16人ほどの方々をお迎えしたことがありました。
その前の一週間ほどは、外出したりほかの客人が来たりでなかなか時間が取れず、草むしりは前日になってしまいました。
入口のあたりに見苦しく育っていたメヒシバを抜けば、その下には次は自分の番とばかり、小さなスベリヒユやコニシキソウが控えていて、カタバミは相変わらず元気、ところどころヤブカラシやヒルガオも伸びて、生垣に巻きついています。
いつもは一人で抜きますが、一人だと間に合いそうもないので、夫も動員してそこいらじゅうの草を抜きました。


さて次の日、お客さまをお迎えして、GHさんから開口一番に言われたことが、
「まあ、大勢で押し掛けて、草むしりまでさせてしまって、すみません」
でした。
いやはや、露骨に見せたつもりではなかったのですが、お帰りになったあと庭に立って、つらつらと庭を見ると、確かに散髪したての小僧の頭のような感じです。

たぶん、都会の方たちだと気づかれなかったでしょう。でもみなさんこのあたりの人たちなので、日ごろから草刈りや草むしりに追われているのはご同様です。そして、天真爛漫なGHさんだからこそ、口にされたのです。

苦笑している私を、
「見え透いた掃除をするからだ」
と夫が非難します。
まあ、大失敗ですが、では草ぼうぼうだったらよかったというわけではなく、仕方がありませんでした。


日ごろからすっきりを心がけている以外ありません。




2014年7月24日木曜日

カンボジアの織物の道具


カンボジアの、絣をくくるときに使う道具です。
後ろの布は、そのカンボジアの絣、腰巻布にして使います。


この道具を、織り幅の長さ(約90センチ)に離して立て、四角い穴に棒を通して固定します。
そして、そこに一枚の布を織るのに必要な分の緯糸(よこいと)をぐるぐると張っていき、張った緯糸を何本かずつまとめて、絣の模様にくくるのです。

糸を引っかけるだけの機能ですから、厚めの板に穴を開け、そこに棒を差し込むだけでも事足ります。


それを、妻のために、母のために、あるいは娘のためにと心をこめて美しく彫るのが、カンボジアの男の心意気なのです。
普段使いの道具を、美しく装飾する、これ以上に豊かな「人間の暮らし」というものがあるでしょうか?


一部は透かし彫りにさえなっています。
しかも、この人だけが特に美しいものをつくったというわけではないのです。

この道具は、十五年ほど前にプノンペンに住んでいたころ、トゥールタンポン市場の骨董屋さんではよく見かける、ありきたりのものでした。
ただ、二つセットで使うものですが、一つになってしまっていたものが多かったような気がします。


先日、カンボジアのシェムリアップで、織物の村をつくって機織りを支援している、古い友人のもりもとさんが、facebookに載せていた写真です。

ポル・ポト時代に、生糸をつくる伝統は途絶えてしまいました。絣の染めと織りは復活して、プノンペン周辺にも絣織りの村がいくつかありますが、市販の生糸を化学染料を使って染めています。
そこで、もりもとさんは、もう一度桑を植え、蚕を育て、糸を繰って草木で染めることはできないかと考え、技術を持っている人たちを集め、荒れ地を開拓して織物の村をつくったのです。
いまではたくさんの若い人たちが育って、事業はすっかり軌道に乗っているようです。

そんなもりもとさんが、プノンペンに住んでいたときに、トゥールタンポン市場で手に入れた道具たち、ペアが二つ、一つずつのものが二つです。どれも、とても素敵です。


たぶん、彫る道具は切れ味のたいしてよくないナイフだったり、あるいは草を刈ったり、薬草を刻んだりする万能の鉈だったかもしれません。


こんな、生活を彩る道具つくりを楽しむような、ゆったりして心豊かな生活を送りたいと、心から思います。




2014年7月23日水曜日

間仕切り役、引き受けます

古い友人HYさんのお店「いるる」で買ってきた蚊帳で、のれんをつくりました。
食品庫には、しばらく前から、「ドアをつけるまでの仮の間仕切り」として布をたらしていましたが、それ以前は、長いこと仕切りなしでした。
仕切りなしでも、そう不都合は感じませんでしたが、床が散らかったりしているときは、ちょっと布がかかっていると気になりません。今も、食品庫の床にはジャガイモの箱が並んでいます。

今回、ただの布より一歩進んだのれんをつくったことで、とうとう将来的にも扉をつくらないで済ませてしまうことになる気配、大です。


脱色した麻の蚊帳はきれいな生成り色です。
ところどころ、脱色しきれずに残った濃い緑の「蚊帳色」が残っていますが、それも素敵です。

ところで、蚊帳は昔、どうして暗緑色に染められていたのでしょう?蚊除けの藍に、もう一つ何か色を足していたのでしょうか?
祖母の家にはいくつかの緑の蚊帳と、白くて裾にいくにしたがって水色のぼかしになっている蚊帳がありました。ぼかしの蚊帳はお客さん用でしたが、大きくなって両親と住むようになった私が夏休みに訪ねるようになると、祖母がその蚊帳をつってくれました。

ちなみに、長じてからタイの農村でよく一人用の蚊帳で寝ましたが、たいてい白い蚊帳でした。
どこの市場でも売っていましたから、麻製ではなく、化学繊維製だったのでしょう。


その蚊帳生地は、「いるる」で見たのれんを真似て、切らずに別布をはさみました。
将来、解いてスカーフにしたりすることはないと思いますが、布を切らないで済ませるというのは、精神衛生上とてもいいものです。


もっとも、はさむ布は、細く切らざるを得ません。共布と、古い麻の着物の布を使いました。

この浅黄色の「波に千鳥」の着物地は、30年以上前に、京都で知人にいただいきました。
織りものに携わっていた彼は、東寺の骨董市で、外国人に古い布を買われるのが悔しくて、手あたり次第買っていたのですが、資料的に要らない布も買ってしまったということで、整理したときにたくさんいただいてしまったのです。


さて、H家では、鍛冶耕治さんのつくった素敵な鉄金具の「のれん掛け」を使っていましたが、私はただの間に合わせでつくります。
「受け」は、市販のフックを叩いてつぶしました。


細くつぶしたフックに、ステンレスパイプを引っかけます。


のれんの完成です。
左右別々に、考えもせずつくったのに、いやだ、線がつながって見えるところがいっぱいあります。

これまで、木枠(もちろん自分で取りつけたものです)の上に、布を押しピンで留めていたのですが、木枠より引っこませることによって奥行きも出て、ちょっとすっきりしました。


冬は涼しそう過ぎるかもしれませんが、一枚の布より出入りしやすく、いい具合です。

母屋で、残りの「懸案の扉」は脱衣場だけになりました。
今は、客人があると布を掛けますが、透けない布を使って、三枚ずらして重ねたらどうかしらと考えているところです。




2014年7月22日火曜日

割れたガラスビン


せっかくの古いビンを割ってしまいました。
ビー玉を入れたり出したり、入れたり出したり、入れたり出したりしていたら、いつの間にかひびが入っていたのです。

一思いに捨ててしまおうか、いやそれでは長く生きながらえてきたビンに申し訳ないなどと悩み、長い間ビー玉を入れたまま、手をつけないでいました。
あるとき、ほん陶さんにお皿の修理をお願いするついでに、ガラスの修理ができるかどうか聞いてみました。
すると、ほん陶さんはしないけれどと、京都でガラス修理をしているところがあると、紹介してくださいました。

そのガラス修理のサイトを見てみました。
えっ、ガレの修理だって?
出土古ガラスの修理だって?
とんでもない。我が家のガラスビンは美術品でも何でもありません。
ガラスに貴賎はありませんが、手をかけて手をかけてつくったものではなく、ちゃっちゃとつくった雑器です。

せっかく教えていただいたけれど、修理には出さない旨、ほん陶さんにお知らせすると、
「ただ補強するだけでいいなら、瞬間接着剤をしみ込ませて、乾いたら表面を削り取るといい」
と教えてくださいました。
捨てるかどうか迷っているくらいだから、強度が出て、使えれば御の字です。


教えていただいた通りにやってみました。見映えはよくありませんが、ビンはとてもしっかりしました。

このビンは、型をつくってその中にガラスを吹いて形づくったもので、厚みが均一ではありませんでした。大きなビー玉があたったとき、とても薄くできていたところが割れてしまったのです。

ビー玉を入れるのはやめて、どんぐりを入れることにしました。
どんぐりなら、たぶん出したり入れたりしないし、軽いので大丈夫でしょう。


ビンにはかわいそうなことをしましたが、一件落着です。




2014年7月21日月曜日

福だるまアネス


「これ、食べていい?」
「あっ、ちょっと待って」
先日、不思議舎さんから買って来た、だるませんべい、せっかくだからと記念写真を撮りました。


実はこのだるませんべい、私は知りませんでしたが「福だるまアネス」という名前の、「昔懐かしいお菓子」のようです。
また、別名を「ひさごアネス」とも言うそうです。だるまと言うよりは雪だるま、あるいはひさご(=ひょうたん)の方が、この形にはぴったりしています。

「アネス」とは、ポルトガル語で焼き菓子と言う意味だとか、こんなお菓子に、昔伝わったポルトガル語が密かに生き続けているというのも、興味深いことです。


それにしても、いまどき手で焼くわけではなく、機械で焼くのだろうと思いますが、みんな違う顔をしています。


怒っているだるま、達観しているだるま、残念がっているだるま。


人生に満足しているだるま、太っ腹のだるま、オタクのだるま。


気の弱いだるま、気の強いだるま、のんきなだるま。

みんなみんな、おいしくいただいてしまいました。