手を掛けてつくった民族衣装の裏に、工場生産の、しかも目立つ派手な布を使っている民族衣装は、ほかの地域ではあまり見かけたことがありません。
「アンティーク沙羅」から写真を拝借 |
中央アジアの民族衣装は、民族グループによってさまざまですが、チャバン、アドラス、ハラト、クルタなどなど、無地に大胆な意匠の刺繍が細かく施されていたり、大きな絣織りであったり、絹の服も多くてとても荘厳です。
そんな服の裏地に、たいてい木綿のプリント布が使われているのです。
プリント布は、ごく大柄のものから小柄のものまでさまざまで、息を呑むような表地の手仕事を、格式ばってはいない裏地がよく補っていて、ほっと気が抜けるような、親しみやすさがあります。
『COSTUME PATTERNS AND DESIGNS』(イギリス、1956年)より |
しかし、もっと古い時代の中央アジアの衣装を見てみると、プリント地ではなく、無地の裏がついています。
『COSTUME PATTERNS AND DESIGNS』より |
無地だけでなく、手織りの絣の裏地が使われている衣装もありますが、プリント布は使われていません。
『COSTUME PATTERNS AND DESIGNS』より |
裏地として、工場生産のプリント木綿が使われるようになったのは、20世紀に入ってからのことのようです。
裏地に使う布は、「ロシア更紗」と呼ばれる、ロシアで染められた布です。
和名では「更紗」と言いますが、プリント地です。
木綿地に文様を染める、「更紗」は、2000年もの昔にインドで生まれました。
インド更紗の美しさは、周辺国だけでなく、やがて毛織物と麻布しかなかったヨーロッパの人々をも魅了し、10世紀ごろからは、アルメニア人によるレバント((東部地中海沿岸地方)交易によって、内陸路経由で、あるいは地中海航路で、ヨーロッパ各地にもたらされるようになりました。
レバント交易は、大航海たけなわ時代の16世紀まで続きました。
インド更紗はヨーロッパにもたらされたものの、染色の技法は長く伝播せず、技法がヨーロッパに導入されるのは、東インド貿易が発達した近世以降でした。
東インド貿易の初期においては、インド更紗はおもに、胡椒や香辛料を手に入れるための三角貿易に使われていました。
東インド諸会社の商船は、まずヨーロッパから金貨、銀貨や地金を積載してインドに向かい、そこでその貴金属をインド産の高級更紗など繊維製品と交換し、次にマレー群島に向かって、繊維製品を胡椒やその他の香辛料と交換して、ヨーロッパへ帰りました。
肉の鮮度を保ったり匂いを消したりするのに、ヨーロッパの人々はもはや香辛料なしでは暮らせなかったのです。
やがて、17世紀後半から、ヨーロッパ各地で更紗の一大ブームが起りました。
木綿の多色で美しいインド更紗が大量に輸入され、輸入更紗の人気はすさまじいものになり、フランスでは自国の毛織物産業を守るために輸入禁止令が出されたりしました。
そののちヨーロッパでも、インドの染色技術を真似て、やっと更紗工房がつくられました。
産業革命の中から生まれたヨーロッパの更紗は、エッチング銅版やローラー捺染という、インドの手染めとはまったく違う方法を用いてつくられました。化学染料も使い、それが量産に向いた近代につながる技法だったため、やがて生産量は激増して、逆にインドにも輸出するまでになっていきました。
帝政ロシアでも、ヨーロッパ更紗の影響を受けて、19世紀半ばから、更紗の生産が盛んになりました。それは、国内消費向けであり、輸出向けでもありました。
当時、多色の手の込んだ更紗をつくるには、草木染料と化学染料の併用、合成染料の微妙な調合、色毎の重ね染め、部分染めによる仕上げなどなど、熟練工の繊細な手仕事に頼る割合が高く、半機械、半手仕事によってやっと成り立つものでした。
ロシア更紗は、英国やフランスなど、ヨーロッパ更紗と競い合いましたが、ヨーロッパでは大きなシェアを伸ばすことはできませんでした。
しかし、中央アジアでは、ロシア帝国支配地としての利を生かして、各地の好みに合わせた服地や裏地用の布をつくり、大量に流通させることができました。
そんなプリント地が、中央アジアの民族衣装の裏地として使われているのです。
私の持っているの花嫁衣装の裏地にも、ロシアのプリント地が使われています。
身ごろや袖裏など、主要部分に使われているのは、桜の花模様の布です。
前立ての裏あたりに使われているのは、幾何学模様の布です。
そして、襟の裏に使われているのは、この中では最も華やかな多色刷りの布です。
ロシアのプリント布は、光沢がなく、何度も水をくぐったような色褪せた感じの色合いに、独特の懐かしさを漂わせています。
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