『満月をまって』(メアリー・リン・レイ文、バーバラ・クーニー絵、掛川恭子訳、あすなろ書房、2000年)は、100年以上前の、アメリカの籠をつくる人たちの物語です。
ニューヨーク州ハドソンからそれほど遠くない山の中に住んでいた、籠をつくって生計を立てていた人々は、月に一回、帰りが遅くなっても夜道が明るい満月の日に、つくりためた籠を町まで歩いて売りに行きました。
籠を売ったお金で、小麦やタマネギ、ラードなど暮しに必要なものを買って山に帰り、また一ヶ月精を出して籠をつくり、その技術を父から子へと伝えてきました。
小さい男の子の「ぼく」は、早くお父さんと一緒に町に籠を売りに行ってみたいと思っていましたが、
「まだまだ」
と言われて、何年も待ちました。
十歳になって、やっとお父さんが、
「一緒に行くか?」
と誘ってくれました。
初めての町は、「ぼく」の目には、見るもの見るものすべてが興味深いものでした。ところが、その興奮が冷めやらぬ帰り道で、町の見ず知らずの男たちから、
「おんぼろかご!」
「山ざる!」
などの侮蔑的な言葉を浴びせかけられてしまいます。
「気にするな」
と言われても、「ぼく」は、しばらくは立ち直れませんでした。やがて、風や木の葉や木の枝に励まされてやっと立ち直り、「ぼく」が確かな籠づくりの人として育っていくという物語です。
人はすぐに他人を差別してしまいます。
特に、町に住む人が、自然に近いところに住む人を差別してきたというのは、世界のどこにでもあった悲しい事実で、昔のことどころか、今もそれが厳然と続いています。
遅れて来て、土地の痩せた食料のつくれない土地に定住したのが理由か、もしかしてアングロ・サクソンではなかったのが理由か、教会もないような場所に住んでいるのが理由か、そのあたりはわかりません。
でも、「異端者」、「異邦人」、「異教徒」、「未開人」などと人を区別したキリスト教が、差別を助長させたであろうことが想像できます。
旧大陸から渡って来た人たちも差別するくらいですから、「違いは違いとして、お互いをあるがままに受け入れる」という精神を持ったアメリカ先住民たちが、ヨーロッパから来た籠つくりの人たち以上に恐れられ、嫌われ、排除され、その後生き生きと生きる機会を永遠に失ったのは、本当に不幸なことでした。
著者のメアリー・リン・レイは作家であり、環境保護運動の活動家でもあります。
あとがきによると、1900年ごろには、籠つくりの人たちはすでに山奥に何代にもわたって住み続けていて、堅牢な、板を割いてつくる籠を、黙々とつくり続けていました。
当時、町の子どもたちは、親たちから、山奥に住む「山ざる」に近づかないようにと言われて育ったそうです。
トネリコ、オーク、ヒッコリー、カエデなどの木を切り倒し、リボンのように割いてつくった籠づくりは、1950年代になって廃れはじめます。籠に代わって紙袋、段ボール箱、ビニール袋が使われるようになり、籠の需要が少なくなってしまったからです。
籠をつくる人たちはどんどん減り、最後まで籠をつくり続けていた女性が1996年に亡くなったことで、100年以上に渡った籠づくりの歴史は途絶えてしまいました。
ところがです!
素晴らしいことに、昔ながらの手法でつくられた籠は壊れることなく、博物館に、個人の納屋の中に、アメリカ民芸のコレクションの中にたくさん残っているのだそうです。
彼らを差別した人たちの生きた証が跡かたもなく消えているというのに、籠が残り、籠をつくった人たちの手仕事の確かさが、今に残っているのです。
『暖炉の火のそばで・ターシャ・テューダー手づくりの世界』(マーティン&ブラウン著、メディアファクトリー、1996年) |
ターシャ・テューダーが使っていたトネリコの籠も、そんな籠つくりの人たちがつくった籠だったのでしょうか?
とても頑丈そうな、そして美しい籠です。
2 件のコメント:
心あたたまるような暮らしのストーリーを想像しましたが・・。初めて知りました、このような方たちのことを。静かに語る籠ですね。
Bluemoonさん
どんな暮しもたいへんで、人は差別する存在をつくって、初めて自分の辛さを我慢できたのでしょうか?だとすると、悲しいですね。
日本でも足が悪い人などは農作業ができないので籠屋さんの弟子にされたと聞きました。でも日本でほっとできるのは、村に逗留して籠をつくったりつくろったりする籠屋さんにはきちんと精いっぱいのごちそうでもてなしたそうです。
でも、この本のように籠が残り、そして技術も伝わっていきます。籠というか民具は黙っていますが雄弁です。
コメントを投稿