2019年1月6日日曜日

日本一小さなこけし


富山の招き猫を買ったとき、おまけでいただいた小さなこけしです。


どうしてこんなに小さくつくったのか、高さ約7ミリしかありません。


後ろに立つ、高さ32ミリの鉛筆のお尻に飾りにつけるこけしが、巨大に見えます。
なんと、首も動きます。


さてさて、こんなに小さいと、すぐ失せてしまいそうです。


というわけで、小さい器に入れてみました。
これでなくならないとは思うけれど、どこに入れたか、きっと何に入れたかわからなくなることでしょう。







6 件のコメント:

af さんのコメント...

小さいサイズのものを作るというのは、どんな気持ちなのかなって、思います。街のジオラマみたいに、実物が大きくて俯瞰したいからとか、実際の船は所有できないけど模型を持つことによって、身近に感じられて嬉しいとかの目的はよくわかるのですが。こういうのって、どこまで小さくできるか、自分の細かい技巧への挑戦なんでしょうか。自分は手先も悪いし、目も見えなくなってきて、そういう喜びが想像しにくいです。

さんのコメント...

Akemi Fujimaさん
同感です。大きいものへの挑戦も小さいものへの挑戦も、人にやらされるのでなかったら、自分自身への挑戦かもしれませんが、その動機がわかりません。米粒に南無阿弥陀仏と書いて、どうなる?(笑)。
でも、模型とかジオラマとかって、根強い愛好者がいるけれど、あれは、極小というのとは、違うかもしれませんね。縮尺を厳重に守って、いかに現実に似せるか?ドールハウスなども同じ、ままごとの延長かなぁ?

af さんのコメント...

縮尺を厳重に守って、どれだけ現物に似せられても、あくまで模型でしかないということでは、現物を作っている人からしたら、ままごとの延長と見えるかもしれませんね。
話が飛躍するかもしれませんが、正月に「人の揺れは人にしか受け止められない」という話で盛り上がりました。つまり、どんなにAIが発達しても人はモデル化できないという話です。模型をつくる人をモデラーというそうですが、モデラーという人たちには、できるできない以前に、人のように自在に揺れるものに感心がなさそうといった印象があって、どちらかというと人とのつながりからの逃避的な行動にも見えるのですが、一方では孤独に強い人たちという印象で、その強さを維持、ときには誇示するための表現活動のようにも思えます。よって、ままごとではないと思います。なんか、うまく説明できませんでした・・・

さんのコメント...

Akemi Fujimaさん
あはは、深い話になりましたね。私はままごとを低く見ていません。遊ぶ中でないものも空想して、空想の世界で遊ぶのは、ジオラマも同じかなと。
ただ、鉄道模型やお城などのジオラマは縮尺を守って初めて安心して見ることのできるものだけど、フィギュアはどうでしょう?気がつかないところでずいぶんデフォルメしているんじゃないでしょうか?
昨日、益子の招き猫展を見に行ったら、松本浩子さんという作家さんが歌川国芳の猫又をつくっていました。海洋堂のフィギュアにも猫又があるんだけれど、印象が違う、松本さんの猫又になっていました。
郷土玩具でも、そのまま縮小したらいいというものじゃない気がします。
ちなみに、赤兵子天神など本物の方が不細工です(笑)。

af さんのコメント...

なるほどです。そのものがまとっている?雰囲気や心?まで表現しようとするかどうか?
ただただ縮尺だけを真似るなか。
動機が全く違うということですね。

さんのコメント...

Akemi Fujimaさん
まぁ、そんなところでしょうか。
どちらも、私には到底できない世界ですが。