2019年1月14日月曜日

村の水車小屋

「昔は精米も粉を挽くのもみんな水車でやってなぁ」
「水車屋の屋号は、「車屋」と言ったよ」
そんな話を断片的に聞いてはいましたが、なかなか全体像はつかめませんでした。
それが、いろいろな人から聞いた話を、ジグソーパズルのようにつなぎ合わせてみると、今住んでいる村に四か所の水車があったことや、その場所などが、次第にわかってきました。
水車を設置するのにふさわしい場所には、水車小屋だけではなく、住まいも建てて、それぞれ、水車を守る人が住んでいたのです。

その四か所の、もと水車屋をやっていた人たちとは、じつはみんな顔見知りの仲です(故人もいますが)。とりわけ、たけさんとは親しくしていますが、たけさんも含めて、彼ら自身から水車の話は一度も聞いたことがないのが、ちょっとおもしろいところです。

どの水車屋も、農家としてお米をつくりながら、精米や小麦、米、蕎麦などの製粉を引き受けていました。それらの作業は村外に外注されることなく、全部村内で行われていたのでした。

それにしても不思議なのは運搬手段です。
このあたり、ネコ車(一輪車)は全く使われていませんでした。背負ったり、馬や牛を使ったらしいのですが、子どもでも楽に扱えるネコ車がどうして発達しなかったのか、とっても不思議です。


ついつい、自分の育った地域と比べてしまいますが。倉敷あたり、どの家にもあったネコ車は、こんな形のものでした。持ち手に綱を掛ければ、両手だけでなく肩も使えました。前の方に重心を置けば重くないので、子どもでも押せます。
ちなみに、リヤカーは細い道では使えないし、舗装されていない道では意外と使いにくいものなので、山仕事でも米運びでも、なんでもネコ車が使われていました。


さて、水源である裏山は、そう高いものではありません。山脈の中で一番高い吾国山で、509メートルです。
その山から、何本もの谷川(集落には大きくは3本か?4本か?)が流れ出ていて、一年中、水が枯れることがありません。
四か所の水車というのは、この写真だと、真ん中あたりに家が見えるところに一か所、そのちょっと上流に一か所、写真の道のつきあたりを左に曲がった奥に一か所、そして手前の右下の端をもっと行ったあたりに一か所ありました。


一枚目の写真の真ん中に見える家のわきには「二十三夜供養塔」(江戸時代に建立)が立っていて、その前の家の屋号は「さんや」といいます。他の水車屋の屋号は知りませんが、かつては「車屋○○」とついていたのではないかと思います。
「さんや」の上流の水車は、たけさんの家が管理していたもので、これを便宜上「車屋たけさん」、残りの水車を「車屋3」、「車屋4」と名づけます。


「車屋たけさん」の脇の谷川は、木に覆われ、倒木も入り込んでいて、4か所の中では一番荒れて(自然に返って)います。
この左に、谷津田をはさんでたけさんの家があり、右は山へと上る道が続き、人家はありません。


「車屋3」は、「車屋たけさん」とは別の谷津、真ん中の、青いトタン屋根の小屋の左にあります。


「車屋3」の水車があったあたりの、谷川に架かる橋から、上流を見たところと、下流を見たところです。


「さんや」の裏を流れている谷川です。
道はここから上りになり、我が家はこの道をちょっと上ったところの左側、さらに行くと「車屋たけさん」になります。


水は音をたてて流れていて、今は農業用水にのみ使われています。
「さんや」の下で、流れは別の谷川と合流、この辺りは毎年蛍が舞います。


これは、一番下流の「車屋4」を上流方面から見たところです。
正面は筑波山です。  
    

「車屋4」の、もとは水車があったと思われる地点に、今は堰と水門があり、稲作の時期には農業用水として使われます。


「車屋4」から、上流を眺めたところです。

それにしても、いつ頃まで水車はあったのでしょう?
今ご存命の方が水車を覚えているということは、戦後くらいまであったのでしょうか?
誰かに訊けばいいのですが、訊いていいタイミングというものがあるし、話好きな人もいれば話したがらない人もいて、一朝一夕では、何気ない情報も集まりません。昔の話を何でもしてくれたちよさんも、故人になりました。


私は子どものころ岡山の農村地帯に住んでいましたが、水車は、足で踏んで田んぼに水を入れる水揚げ水車しか知りませんでした。
いくつかの集落で共用する精米小屋は、すでに動力を使っていました。その動力が電気だったのか、油を使う発動機だったのか、運営体制はどうだったのかなど、子どもだったので気にもしていませんでした。
食糧難の時代でしたから、誰もが裏作に小麦もつくっていましたが、製粉はどうしていたのでしょう?
水車はまったく見なかったし、今となっては知るすべがありません。


八郷内で、今でも水車が残っているのは、水車で杉の葉を粉にしている線香屋さんだけです。
線香屋さんは線香によい杉の葉を求めて、明治時代にこの地に落ち着いた方です。






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