2010年3月8日月曜日

もち米入れ クラティップ・カーオ



タイ東北部、北部、ラオスなどでは、うるち米ではなく、もち米を常食します。朝、蒸かしてそれを、昼と夜にも食べます。
これは、蒸かしたもち米を入れるお櫃、クラティップ・カーオです。典型的なものは竹で編んだもので、木のお櫃は、あまり見たことがありません。

これは、1986年、タイ北部ナーン県、ナーファン村の長老、アネークさんにいただきました。

タイに3年もいたのに、タイのことをほとんど知らないことを残念に思っていた私は、帰国してから、住まいのすぐ近くに大学があったこともあり、なんとかの手習いで受験勉強をして、大学院に入りました。学生生活は有意義で、いろいろなことを知り、勉強がおもしろくてしかたありませんでした。
村落の相互扶助に関心を持っていた私は、調査対象として、昔ながらの木の堰を、毎年村人総出でつくっている村をさがしました。木の堰は、残念ながら、そのほとんどがコンクリートの堰に取って代わられていて、やっと、昨年まで木の堰をつくっていたという、ナーファン村にたどり着いたのでした。

北タイ語ができないのでは困るだろうと、チュラロンコン大学のS先生のご紹介で、大学院生のチュムが通訳として来てくれることになりました。
待ち合わせ場所に、チュムだけでなく、友人のプクも来ました。タイ人は、とくに女性は、なにかにつけて、すぐ友達を誘うので、全然驚きませんでした。

三人で、わいわいと一緒にいたことは、なかなかよいことでした。夕食後、雑談していると、まわりで聞いている村の人たちが話に入ってきます。そんなとき、インタビューしたのと、話が全然違っていることが、よくありました。インタビューではたてまえを答えますが、雑談のときは本音が出るのです。私は北タイ語がわかりませんが、村の人はみんな、タイ語がわかるので、三人がなにを話しているのか、いつも興味津々で聞いているのでした。

チュムが教えてくれた「村での暮らし方」は、その後、どこに行ってもずいぶん役立ちました。例えば水浴び。「水は貴重だから、バケツ1杯だけでやって」、と言います。井戸の傍で、戸外ですから、身体にサロンを巻いたまま水浴びしています。どうしても、水をジャブジャブ掛けたくなります。また、毎日歩きまわっていて汗も出ますから、頭も洗いたい。最初はバケツ1杯でできるかしら、と思いましたが、やればできるものです。洗濯も、少ない水でできるようになりました。

ナーファン村は、30戸ほどの小さな村でしたから、すべての家に出向いて、お話をうかがいました。そんなとき、私がいろいろなもの、道具や布などに関心を示すと、人類学を学んでいるチュムやプクも喜びます。このもち米入れも、アネークさんの家で、感心していると、チュムが、「これ、欲しい?」と、ずばり聞いてきます。一人で行っていたなら、失礼だと思って欲しがったりませんが、「欲しかったら、もらってもいいよ」と、背中も押してくれます。




アネークさんが別のもち米入れも見せてくれました。どちらも、自分で彫ったものです。「これも欲しい?」と、チュム。「本当にいいの?」、「大丈夫よ」。
とうとう、欲張りな私は、二つともいただいてきてしまいました。お礼も、失礼にならないよう、チュムの言うとおりに差し上げればいいので、とっても楽でした。

アネークさんの木工の腕はすごくて、家も自作でしたが、ドリルのように彫ってある、二本の太い木を歯車でまわしてサトウキビを搾る道具や、綿の実を取り除く道具など、いろいろ、見ごたえのあるものがありました。




もち米入れは底が抜けていて、木の丸い板を、底に置いて使うようになっています。彫るのも、洗うのも、このほうが楽なのでしょうか。これを見るたびに、ナーファン村やチュムやプクを懐かしく思い出します。

ナーファン村には数年後、夫も誘ってチュムと3人で遊びに行ったことがありました。

タイ政府は木の堰をつくるために、北部のたくさんの村でたくさんの木を切るのは、環境破壊のもとだと思っていました。そのため、コンクリートの堰をつくったのですが、それは大きな誤算でした。
毎年、何百本、何千本もの木を切るためには、みんなで森を護らなくてはなりません。たくさんの地域で、森が、村人によって長年護られてきたのです。
ところが、コンクリートの堰がつくられ、重い責任を担っていた、互選の堰長も、お役ごめんとなりました。もう木の堰をつくるための木が必要ないと知った人々は、あちこちで、怒涛のように広大な森を切り開き、山を焼き払って、換金作物のトウモロコシを栽培するようになりました。
ナーファン村の裏山も、行けども行けども黒焦げで、わずかに緑が残っていたのは、山地民の住んでいるあたりだけとなっていました。

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