我が家は、家の材料として、茨城県、福島県、栃木県の三県にまたがる八溝山のあたり、「八溝杉」を使っています。標高が高く、目の詰まったよい杉です。
その、八溝杉の原木を加工している、福島県塙町のK木材を、今度家を建てようとしているMちゃんとともに見学しました。
4万坪以上ある敷地のあちこちに原木が運び込まれ、積み上げられていました。
K木材では、直接山から買った原木と、原木市場から買った原木の加工をしています。原木には、4メートルものと6メートルものの二種類があり、それを重機が忙しく積んだり動かしたりしています。
ぐるぐる回して、皮はあっという間にはがされ、まるで皮をむいたごぼうのようになって出てきます。
そのとき4つ出る、かまぼこ型の切り離した材も四角く切って板にします。
まっすぐなように見えて、木はすべてが形が違うので、レーザー光線を当てて瞬時に木取りの方向を判断して、丸い部分を切り落とします。
こうして、材木にしたものを、乾燥機にかけます。
正面に見えるのが炉です。右の木が、もう2段積んで揃う(全部で2列×4段×3=24ユニット入る。1ユニット48本)と、レールで炉の中まで運ばれ、扉を閉めて、高温にして乾燥させます。
現在では、効率を上げるため、ほとんどの建物にKD材(Kiln Dry Woodの略で、乾燥機(Kiln)で乾燥した材)が使われています。
しかし、KD材は加熱するため、木の脂分が抜けて、色が悪くなります。また、AD材(Air Dry Woodの略、天然乾燥材)に比べると、木の粘りがなくなります。
それをできるだけ避けようと、K木材では、高温で表面の水分を抜いた後、一旦炉から取り出して冷やしてから、今度は低温の炉に入れて、芯の水分をゆっくり抜くという手間をかけているそうです。
また、燃料は化石燃料ではなく、おが屑や端材を燃やしています。
なるほど、商品となった木材は、KD材にしては、わりと色よく仕上がっていました。
AD材と一般のKD材を比べると、見た目は色が違うくらいですが、AD材は建物になった後も木としての特性を備えたまま「生き続け」ますが、KD材は見た目が木でも、すでに死んでいます。
K木材は、山の近くだし、AD材も扱っているとある方に紹介されて、見学に行ったのですが、AD材の取り扱いはもうしていませんでした。
また、道のまわりに広がる穏やかな風景にも、なごみました。
帰りは道を東に取って、海に出ました。
19 件のコメント:
自然乾燥は減ってるんですか・・・。
林野庁により国産材の活用を推進するために、公共建築物を木造とする法律『公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律』というのが平成22年に制定され、機械乾燥技術も発達したのだと思います。その支援の研究費で木材乾燥時間を算定するプログラム開発にかかわrせていただいたいのですが、確かに二次乾燥のモデルでした。
春さんのコメント、「自然乾燥だと木として生き続ける」を拝見しそうか!と思いました。50年近くかけて成長しても、そのあと何年耐久するのかと考えたとき、自然乾燥にかかる数年を省くことが長期的な木材の価値としてはマイナスですよね。うーん、、、
それにしても、自分の家の木を原木から見に行くなんて、素晴らしいことですね~。
我が家はツーバイフォーなんですが、たぶん、米国あるいはカナダあたりから輸入された製材だと思いますが、当時、まったく興味を持っていませんでした;
ローンの計算しか考えてませんでした;
Akemi Fujimaさん
衣食住すべて地産地消が最も好ましいと思いつつ、なかなか難しいです。
また、手っ取り早さが求められ、何でも使い捨てることが美徳である今、「木材が30年しか持たないで何が悪い?」という考え方もあるでしょうね。
製材屋さんも、八郷にあるような個人経営の、どんな木でも挽いてくれる製材所がベストと思いますが、そんな製材所はどんどんつぶれて、大きな機械を入れた大きな工場だけが生き残るのが現状です。
自分の生活にかかわるすべてを(何を食べるとか、木綿はどこで栽培されているのかなどなど)考えないで生きていける時代ですが、こんな生活がいつまでも続くのかなぁ?どこからか、しっぺ返しが来る気がします。
「木材が30年しか持たないで何が悪い?」という考え方・・消費文化が何故こんなに蔓延したのか。私が子どものころでも、まだ、お下がりとか、服をリメイクするとか、糸を何度も洗って使いまわすとかあったわけですが・・・いつしか・・・。
主に女性が家庭で手間をかけていたことは、女性活躍とかいう施策の中で共働きが当たり前になってきて、時間が無くなって・・・。うーんうーん。なんか違いますよね。
しっぺ返しが、自分にくるなら自業自得ですが、将来の人たちに負担させるのはダメですよね・・・。完璧にしようとすると大変ですが、わずかでも考えるようにしていきたいと思います。そして、物を大事にすることを忘れないようにしたいです。
ところで・・・壁の工事、見学希望です!もし機会があれば、見学させてください!
今から40年近くなりますが
米材が安く輸入された時代でしょー
北九州近郊に「アメリカ村」の名称で
大々的な住宅団地が出来ました
今の洋風住宅に比べてまだ窓が多かったです。
今は二代目さっさと壊し冷暖房完備
窓の少ないあっても腰が高い家ばかり
高齢者は風の抜ける家がいいなー
Akemi Fujimaさん
壁って、壁塗りですか?
先日も下地のままの壁(室内)を、「漆喰の下地ですか?」と訊かれて恥ずかしい思いをして、一念発起下塗りだけでもせねば、と思ったのですが、まだ手つかずです。休日がいいですよね?お天気なら12月1日辺りはいかがですか?そこまで土曜日は詰まっていて、日曜は原則休んでいます。
昭ちゃん
今の建築すごいですね。家はエアコンの効く箱でありさえすればという考え、おそらく30年後には見直されるでしょうね。
家具が焼けるから、日光はいらないと言っていますが、日光のありがたさ、風(空気の動き)の大切さが見直される時が来るはずです。日光あっての生物ですからね。紫外線を避けて、帽子を目深にかぶって、手に日焼け止めの手袋をして、日傘をさしている人、「生物をやめたんですか?」と聞きたくなります。
姐さんにきたコメさんへ
教育界でも同じことで同感です。
昭ちゃんさんへ(次は昭ちゃんって書かせてください)
家庭で手間仕事をやらなくなったこと?
それとも、しっぺ返しのところに同感いただいたのでしょうか?
教育とのことですが、姪が富山県で小学校の新米教師をしていて、いつも驚く話を聞かせてくれます。先日は、大風大雨になって下校する1年生に、「今日は傘は閉じて帰りましょうね」と話して返したところ、下校先の親御さんから苦情の電話「せっかく濡れないように傘を持たせたのに先生のせいで、ずぶ濡れで帰りました。かぜをひくかもしれません」。えええ????と思いましたが、まだ、続きが。主任のベテラン先生に顛末を話したところ「〇〇先生、親御さんの気持ちも考えて、よく行動しなさい」って言われたそうです。えええっっっっーーー?
この先の見えない不安な時代だからこそ、人の教育にこそ丁寧に手間をかけるべきだと思うのですが、大変なことになっているのかなぁと。
昭ちゃんは、教育界の方ですか?
春さんへ、「生物をやめたんですか?」って面白いです!これ、ほかの場面で使ってみたいです。たとえば、最近の若い方で(息子を含む)、「彼女は無理かなー、いなくてもいい」みたいなことをよく聞くので、「生物やめるの?」って聞いてみようと思います!反応が楽しみです。
あけみさんこちらこそよろしく
春姐さんのブログをお借りして、
リタイヤ後いろいろ楽しんでおります。
学校から依頼され平成4年から出前授業を22年続けました。
その当時でも担任の大忙しを見てきましたし
給食中も食べながら、私なら1週間もてませんね。
「マンモスペアレント」こんな言葉も無い時代で
ベテラン元教師を呼びもどしたり中学・高校の様子が
想像されます。
ブログではこれ以上書けませんが
全てが世間一般の流れでしょー
昭ちゃん、よろしくお願いします!
春姐さんのブログ、楽しいですよね!
出前授業22年!すごいです!!!
その間にも様々かわってるのだと思いますが、変わらない大切なこともあり、
先生方が日々、苦労されているのだろうと思います。
何か、根本的に感謝の気持ちが足りないという気がしています。
家族・祖先・先人・大地・・・
春姐さんブログをお借りしますばい。
あけみさん
戦後全てが否定され「民主主義・多数決」の美酒に酔った付けでしょうー
私は「知足安分」の時代を生きてきましたし
全ての過渡期を体験したつもりです。(大笑いです)
昭ちゃん、昨日のコメント、ありがとうございます。じっくり考えさせられました。
戦後確かに民主化が進んだのは良かったのだと思うのですが・・・美酒・・・なるほどです。高度成長の中で調子にのってしまったのでしょうか。知足安分、これもまた、考えさせられます。民間企業で働いていますが忘れずいたいものです。
私の母は86歳で東京で空襲・疎開を経験し、自身もやけどをし、兄たちは軍人で亡くしています。母が言うには最近の世の中は戦前の空気に似てきているというものです。また、これまで世の中を見て、感じてきた違和感について、他人に話すとき戦時中の息苦しさが思い出され話しにくさを感じてきたというものです。だんだん、母の言いたかったことがわかってきたような気がする今日この頃です。
あけみさん
私も短期間ですが「ホー介・補充兵」と卑下され毎日
叩かれていました。
我が家は東京最後の大空襲・20年5月25日~26日で焼失
九州に来て73年目です。
昭ちゃん、
そうでしたか・・・
最後の大空襲かわからないのですが、母と祖母は世田谷で火傷を負ったそうです。
家はどうしたんだろう・・・。こんどあったとき聞いてみます。
これからも、差支えない範囲でいろいろ教えてください。
実体験として語る方のお言葉が聞きたいです。
あけみさん
私のメルアドやブログは春さんから、、、。
若林は残りましたが世田谷は上馬や笹塚のほうかな。
私も詳細を聞きたいです。
「人間は死に直面すると足が竦み念仏を、、、、」
母がそうでした。
何事について語り部ブームですが
「似非」も多いのでご注意ください。
やはり年齢や体験の根拠・裏づけなどが大事です。
いくらでも作れますからご用心あれ。
春さん、これで終わりにします。
昭ちゃん、この度はありがとうございました。思わぬ話の展開でしたが、おかげで先日、母と空襲を含めて戦時中の話をじっくり聞いてきました。何でそんなこと、知りたいの?と不思議がってました。大田区山王から強制移動先だった5月25日だった気がするけど、よくわからないと言ってました。本牧で受けたそうです。薬はなく食欲油と包帯。うじがわいたそうです。そのあと田園調布まで火傷ながらもリヤカーを押したとか。なにもなかったのにリヤカーで何を運んだのかしら…とか。いま実家には山王の家にあったというステンドグラスが残っています。
これまで当時な話は断片的にしか聞いてなかったのですが今回、母の家族のことなどもじっくり聞けました。私が大好きだった祖母は母にとっての2番目の育ての親だったことも始めて知りました。こういう機会をもてたのは昭ちゃんとのここでの会話のおかげです。深く感謝します。本当にありがとうございました。
Akemi Fujimaさん
お母上と話ができてよかったですね。私はいつか私の生まれた横須賀の町を案内してもらいたいと思っていたのに、父は亡くなり、母も歩けなくなり、とうとう知ることはできませんでした。
もっとも、父が戦争の話をすることはありませんでしたが。
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