2016年8月6日土曜日
「笑おこし」と「鹿のおせんべい」
奈良にお店がある中川政七商店が、「オンラインショップで今なら買える、日本市の旅、奈良・大阪編」というのをやっていて、普段は奈良と大阪の実店舗でしか買えないものをネットで売っています。
その中に、「鹿のおせんべい」と「笑おこし」がありました。
ちょっとしたお返しとして常備している布巾やお菓子がちょうど切れていたところなので、買ってみました。
「笑おこし」は、「鹿のおせんべい」の半分の値段、ワンコインで買えます。お菓子はただの添えものだろうと、期待せずに開きましたが、わぁ、懐かしい、小さいながら昔ながらの包装の粟おこしが入っていました。
小どものころ、倉敷で暮らしていたので、粟おこしは馴染みのお菓子、大阪に行った人がお土産にくれたのは、たいてい粟おこしでした。それがタイムスリップしてやって来たようでした。
あれから、みんなの口はすっかり奢ってきて、関西土産と言えば神戸のおしゃれな洋菓子ばかり、昔ながらの粟おこしをお土産にする人などなくなってしまいました。
缶は、漫才に、
上方落語や漫談、
ちんどん屋と、大阪文化満載です。
それに比べると、「鹿のおせんべい」の缶の絵は穏やかなもの、
昔の制服を着た修学旅行の男の子と女の子が鹿にせんべいをやっている図です。
「鹿のおせんべい」は、もちろん鹿が食べるのとは違う、美味しい卵せんべいでした。
もっとも、関西以西では卵せんべいなどと呼ばず、せんべいと言えば小麦粉でつくった甘いものですが。
ちなみに、洋風のお菓子の数々ができる前の神戸土産は、硬くて大きな瓦せんべいでした。
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8 件のコメント:
上方のお笑いは中々関東では受けませんでしたが、
藤山寛美や藤田まこと以降徐々に浸透しヤス・キヨが
頂点にたちましたね。
こんな時代が最高です。
今は無理に笑を取っているような。
昭ちゃん
私は浪花千栄子大好きでした(笑)。花菱アチャコが息子になって二人で掛け合っていたのはラジオだったのかな。懐かしいですね。
小学校の修学旅行が大阪京都で、大阪では生まれて初めてプラネタリウムを見ました。当時はプラネタリウムは大阪にしかありませんでした。まだ日本全体が暗い時代で天の川も普通に見えていたので、そう物珍しい気がしませんでした。明かりがついたらぐっすり眠っている子がいて、大笑いでした。
あれから、日本列島はすっかり明かりに包まれて、天の川は見えなくなってしまいました。
どうしても書かなければいけない春さんのコメントなので、、、、
日本で初めてプラネタリウムを輸入したのが大阪です。(昭和12・3月)
2台目カールツァイス社製が東京日々新聞社(のちの毎日新聞)社屋の天文館です。
昭和20・5・25の空襲で我が家と同じく焼失しましたがよく行きましたよ、
解説は有名な野尻抱影先生でした今は国産ですね。
昭ちゃん
ありがとうございます。大阪と東京の子は、それまでもプラネタリウムを見る機会がよくあったのですね。私はその時初めて見て、以後、一度も行ったことがありません(笑)。
もう一つの訪問地京都はたぶん、清水寺、三十三間堂、そんなところだったのでしょう。
東京に移り住んで、中学の修学旅行は京都・奈良、高校の修学旅行は京都・奈良+和歌山の白浜、大学の研修旅行は京都・奈良と、京都は四回とも行きました(笑)。
わ~、春さんの唯一のプラネタリウムが大阪の電気科学館だったんですね!私が中・高と住んでいた所(両親は今も在住)から自転車で10分だったのでよく行きましたよ。中学の時は星の会に入って友達と月一で通っている時期もありました。天体にそんなに詳しくならなかったけど。もう今は電気科学館はありません。日本で最初のプラネタリウムだったんですね。
盛り上がりますねー
昭和15年の表題は今でも覚えていますよ、
「皇紀元年頃の空と1満年後の空」です。(2600前・これは戦後無くなった日本の年号ですね)
今は分かりやすくすぐに星座映像を投影しますが
数少ないので想像力は当時の方が、、、、
珍しく冷暖房完備のドームです。! !
hiyocoさん
そうそう、電気科学館という名前でしたね。あそこしか行ったことがないので、他のプラネタリウムと比べようもありませんが、地平線のあたりには建物かありましたっけ。
小学校時代の記憶はぼんやりしていますが、あのプラネタリウムのプログラムが終わって明るくなった光景は、今でも何故か鮮明です。
祖母がなくなって家もなくなってから故郷に行くこともなく、小学校時代の友たちとは音信不通のままです。もっとも、大きく変貌した品川の中学の友とも音信不通、高校の友とも同窓会費を払うのをやめてから音信不通、音信不通のオンパレードですが(笑)。
昭ちゃん
確かに、今の方が選択肢が多い分、どこのプラネタリウムも、ただ直球を投げるというわけにはいかないでしょうね。
水族館も、博物館も、当時は実に素朴な飾りつけでしたが、子どもなりに説明のプレートなどよく読んだり、写生したりして、印象は深かったかもしれません。
いったい、どのくらいの情報量が一番想像力を掻き立てるのでしょうね?もちろん個人差があると思いますが、おもしろい問題です。
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