自分で言うのもなんですが、私はいわゆる方向音痴ではありません。
しかし、初めてや久しぶりの場所に行こうとするとき、とくにコンピュータを使って調べるときの詰めが甘いのと、早とちりのくせに思い込みが激しいのとで、目的地の近くまで行って迷うことがあります。
あきれた夫が、たとえ私の行きたい場所であっても、事前に調べてくれるようになったので、近年は迷うことも少なく、目的地に行けていました。
そんなふうに、いつもは夫に頼っている私ですが、思いたって一人で尾曳さんの骨董市に行ってみることしました。
尾曳さんには一度行ったことがあり、小さいおもちゃなどが多かった優しい感じが印象に残っています。また、近くの骨董市には来なくなったがんこさんの持っているものも、久しぶりに見てみたいという感じがありました。
以前行った時は高速道路を使いました。今度は一般道で行くつもりで、前の晩には自分で地図もつくり、カーナビのついていない車ですが、準備万端でした。
当日の朝、出かけようとしていると、
「どこへ行くんだっけ?」
と夫。
「えっと、前橋だったかな、館林だったかな。あのあたり」
私は簡単の二つの地名を並べました。
しかしその日、あまりにも私の帰りが遅いので、心配した夫があとで調べると、前橋と館林は60キロ以上離れていることがすぐにわかったそうです。
さて、私はといえば、なんとなく遠くはない思って出て来たのに、道路案内板の「前橋まで130キロ」の表示にぞっとしました。
それでもひたすら国道50号を走り、自分の書いた地図を見ながら、目的地とおぼしき地点まで来ましたが、以前に来たところとは、まったく景色が違います。
「尾曳神社を知りませんか?」
歩いている人、トラクターで田んぼを耕している人などにたずねること五、六回、誰も知りません。同じところを、なんどもぐるぐる回りました。
その時点で、もしあの大きな尾曳稲荷がここにあるなら、こんなに知られていないはずがない、おかしいと気づくべきでしたが、疑いもしませんでした。
「そこの、タクシーの会社で聞いてみたら?」
と助言してくれた人がいたので、タクシー会社に入ってみました。見かけた運転手さんは、
「さあ?聞いたことがないなぁ」
他の人たちにもたずねてくれましたが、みんな首をかしげます。と、一人が、
「あの稲荷かなぁ。おれたち稲荷としか言ってないけれど」
「そうです。きっとそうです!」
その言葉に、私が飛びついた時には、さがしはじめてから一時間も経っていました。
今度こそと期待したものの、教えていただいたとおりに行っても神社は見つからず、また国道50号に行きあたってしまいました。
と、目の前に交番がありました。天の助けです。
「尾曳さんなら、館林じゃないの」
「えっ?あぁ、そうだった。町を間違えたんだ!」
ここで初めて、自分で描いた地図そのものが間違っていたことに気がつきました。じつは、とっても小さな掘立小屋のような尾曳神社が前橋にもあることはあったのです
「館林ってもっと東ですか?わぁ、来すぎちゃった。来すぎちゃった」
往復で100キロ以上ある場所まで来てしまって、心の中は後悔でいっぱいです。
「まず、尾曳神社の住所を特定しましょうね」
と、おまわりさん。スマホを取り出して調べ、住所を紙に書きます。
「50号を帰れば、館林に曲がる表示は出ていますよね?」
という私の質問を制して、
「最寄りの駅は、東武線館林駅、ここから約2キロ」
と、また紙に書きます。
「私、電車じゃありません」
「東北自動車道なら館林I.C.で降りてから、3.9キロ」
「私、高速は使いません。50号で行きます」
いろいろ書き終わったお巡りさんは、今気がついたように、
「では、50号で行くんですね」
と言いました。
私は最初から、そうとしか言っていないのに。
「50号なら地図を書きましょう。まず笠懸町を通ります、それから桐生を通って...」
お巡りさんのおかげで間違いがわかったのですが、ここでゆうに30分は足止めを食ってしまいました。
もう一人いた若いお巡りさんが、
「カーナビは2万円くらいで買えるんだから、つけた方がいいんじゃないですか」
と横から、あきれ顔で言います。
今はスマートフォンでもナビゲイションできると知っていますが、ケイタイもスマートフォンも持っていないのですから、始末の悪いことこの上なしです。
来た道をひたすら帰ります。
もう、50号に面していない館林に行くのはやめて帰ろうかとも思いましたが、それでは一日が完全に無駄になります。迷った挙句、館林の表示に従って50号から逸れました。
でも、その道がはたしてよかったのかどうか、館林まではそこから20キロ以上もありました。
やっとの思いで尾曳稲荷につくと、骨董市ははや終わりかけていて、ほとんどの骨董屋さんが荷づくりをしていました。
久しぶりに会ったがんこさんも、ほとんど車に積んでしまった後です。私は、場所を間違えた顛末を語ります。
「何か、好きそうなものあったかなぁ」
「いいのよ。荷物をまた解いたりしないで」
「せっかく来てくれたんだから、これあげるよ」
がんこさんが、まだ積んでなかった土人形を包んでくれました。一日をふいにした私に同情してくれたに違いありません。
「琉球張り子はよくあるけれど、土人形は珍しいわね」
「でしょう?そんな話をしてたのよ」
帰ってからネットで検索して見ると、右の女性はもともとは花笠をかぶっていたようでした。
尾曳さんにいたのはほんの10分ほどだったでしょうか。そのままとんぼ返りしましたが、なんと家を出てから帰り着くまで8時間もかかってしまいました。
ばかな、ばかな一日でした。
2 件のコメント:
春さん私にとっては70年前にタイムスリップしたような地名がでました。
もちろん当時(1944年)は「笠懸村」です。
外〇省から軍需工場に配転笠懸村にあった「愛国飛行場」で投下試験をしていました。
今は宅地になっています。
あの時代でも腹いっぱい米が喰えました。
(笑)
昭ちゃん
笠懸町って、古墳なんかもある由緒正しい古い町なのですね。私はその時は気が急いていましたから、「お巡りさん、どうしてそんな近いところから地図をはじめるの?」という気分でした(笑)。群馬にはおっきりこみもあるようにどちらかと言えばお米がとれない「うどん文化」のところが多かったのかと思っていましたが、笠懸町のあたりは、お米が潤沢だったのですね。
さて、少年昭ちゃんが見た景色と、もしかしたら今もあまり変わっていないかもしれません。もっとも道路は日本国中舗装されてすっかり変わってしまいましたが。
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