2014年10月7日火曜日

よみがえった裃雛

東京は江戸時代も火事の多いところでしたが、1923年の関東大震災と、1945年の大空襲では、焼け野原となりました。
戦後は、「復興から開発へ」という道をたどる中、道路が整備され、高いビルが建てられるようになり、あちこちで工事が行われるようになりました。

1960年代には、私は東京で電車通学をしていましたが、車窓から見える範囲でも、建物を建て替えるために更地にされたところで、太古の住居跡の調査をしているのが、あちこちで見られたものでした。
住居跡は、記録したあとは惜しげもなくさらに掘られ、当時は地盤を堅固にするためのパイルという鉄の棒を打ち込む音が鳴り響いていました。

当時の私は知る由もありませんでしたが、建て替えの際は、そんな古い時代の遺跡だけでなく、ちょっと前のものもたくさん見つかったようです。
いまどきさんこと、吉田義和さんのお話では今戸人形が、完全な形をしたままで、あるいはちょっと欠けたり焼けただけで、あちこちからたくさん掘り出されました。中には、かすかに色の残っているものもありました。

いまどきさんは、もともと今戸土人形を集めているだけの人でしたが、やがてご自分でもつくられるようになり、ついに学校の教師も辞され、当時の技法、当時の顔料、東京の土にこだわって、今戸焼を次々と復元していらっしゃいます。


そんないまどきさんが、人形の老舗「吉徳」に頼まれて裃雛(かみしもびな)を復元したという記事が、2014年8月29日の『東京新聞』の夕刊の一面トップに載りました。
我が家のあたりは残念ながら夕刊がないので、東京に住む妹に頼んで送ってもらいました。

1711年創業の吉徳が、1970年代に旧本社建設のため地面を掘り起こしたとき、今戸焼の裃雛が大量に見つかったそうです。吉徳で、明治時代に販売していた商品が、火事や関東大震災で埋もれてしまっていたのです。
その裃雛は、ずいぶん前からいまどきさんが復元していたものでもありましたが、先月の吉徳の新本社ビルのお披露目で関係者に配る記念品として、新たに400個つくられました。
制作は、吉徳の旧本社解体時に掘り出した土から粘土を取り出すところからはじまり、見つかった人形から型を取ってつくられたそうです。

今戸焼は、東京の庶民のものでした。
群青色と朱色が特徴の潔い今戸人形の裃雛も大いに好まれていましたが、明治以降はブリキやセルロイド人形の影響で次第に廃れてしまいました。
もしいまどきさんがいなかったら、今戸焼の裃雛、そして数々の招き猫や鉄砲狐なども、当時の姿のままで見ることは、できませんでした。


いやはや。一ヶ所に集めてみると、いまどきさんの今戸焼が、我が家にもいろいろ棲息していました。


招き猫の中には、まだいまどきさんが教師をしながらつくりはじめたばかりの頃のものもあります。





2 件のコメント:

いまどき さんのコメント...

忙しかったのでパソコンをいじる機会が久しくありませんでしたが、久しぶりに移転先のブログへコメントくださいましてありがとうございました。久しぶりにお邪魔しましたが、新聞記事のことをとり上げてくださっていたのを知りませんでした。ありがとうございます。今年はいろいろなところで話題にとりあげていただいたり、作る機会をいただいたりで、幸せでしたが、わがままをいうと、ひっきりなしにいそがしかったのでここ数日一時的に肩の荷が降りてへたっています。
またお邪魔します。ありがとうございます。

さんのコメント...

いまどきさん
お忙しいのはよくわかっていますから、気になさらないでください。今年が大活躍のよい年でよかったですね。きっと来る年もいい年でしょう。
今おつくりになっている干支の羊はいいですね。ほっそりしていて、角が立派で。確かに、干支に緬羊は似合いません。ずっと変だと思っていたのはそういうことだったんだとわかりました。