2015年12月12日土曜日

麦わら細工の籠


Gさんの家に行ったら、早々とお正月飾りがしてあって、その前に、麦わらの籠を飾っていました。
聞けば、栃木で、黒米、赤米、緑米など混ぜた、「いろいろ米」というのをつくっている、上野長一さんがおつくりになったもののようです。


底から見ると五角形、この麦わらの籠には、いろいろなバリエーションがあります。


ドイツ企画、中国製の、麦わらオーナメントのボール。


底は七角形になっています。
 

麦わら(大麦かカラス麦)の茎の、一番上の茎だけ使ってつくりますが、つぎ足すときは太い端に細い端を突き刺します。
オーナメントのボールの方は、よく見ると茎の太い細いが顕著ですが、Gさんの家の籠は、とっても太さが揃っています。
つなぎ目も、見えませんでした。


こちらは、『作ろう草玩具』(佐藤邦昭著、築地書館、2004年)に載っていた手籠です。


これを見ると、縁の広い方から編んで、底で終わっています。
さて、Gさんの家の籠はどちらから、そしてボールは、どちらから編むのでしょう?







10 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 家内は筑豊で育ちました。
今は入手できませんが一枚目のはホタルを入れて
遊んでいました懐かしいです。

さんのコメント...

昭ちゃん
麦わらのホタル籠だったのですか、贅沢でしたねえ。
私はホタルは何でも屋で売っていた虫篭に入れていました。ちゃちな籠でした。あまり麦わら細工はしませんでした。
あの当時の夏は暑かったですね。用心深い祖母はすぐに雨戸もガラス戸も閉めてしまって、さらに蚊帳をつって。
団扇を使っても汗が吹き出ました。でも、夏ってこんなものだと思っていました(笑)。

昭ちゃん さんのコメント...

 風邪やその他の病気より夏の日射病を親は用心しましたからね、
いわゆる日本脳炎です。
30年代後半の大流行「ポリオ」
いったいあれは何が原因だったのかな-
いまだに不思議です。

さんのコメント...

昭ちゃん
叔母(父の妹)は小さいころ脳膜炎に罹ったとか、その心配もされましたが、祖母の怖いものは人(泥棒)もあったけれど、お化けとか祟りもあったんじゃないかな(笑)。雷も異常に怖がっていました。
天理教の人だろうと、大本教の人だろうと、金光教の人だろうと、祖母のところにきて、「お参りに行く」と言うと、必ずお布施を包んでいました。いつだったか祖母に、「いったい何教を信じているの?」と聞いたら、「どの神様からも恨まれたくない」ですって(笑)。あれで女子師範に行った人だから驚きです。でも、昔は暗くて、怖いところはいっぱいありましたね。

昭ちゃん さんのコメント...

 それぞれの方の過ごした時代がわかって面白い話ですね。
昭和30年後半から徐々に闇が無くなり小高いところから眺めると
今は光の帯が繋がって見えますからね。
 明治時代の祖母や母の怪談やキツネに騙された話は
面白かったです。

さんのコメント...

昭ちゃん
ホタルを籠に入れるのも楽しかったけれど、道に縁台を出して涼みながら線香花火をするのも楽しかったですね。夏は毎日天の川が見えて、それが当たり前だと思っていましたが、今では日本列島が明るすぎて、ほとんどのところから天の川は見えません。
山手線から見る景色も、明るいのは有楽町駅のあたりから見る、銀座四丁目と交差する道だけでした。もちろん車両は冷房がなくて、むんむん蒸しました。

昭ちゃん さんのコメント...

 春さんちょっとあとになりますが
冷房のなかった東京の地下鉄も暑かったですねー
恵比寿から乗って六本木下車でしたが、、、(笑い)

さんのコメント...

昭ちゃん
母の弟、私の叔父が、私の誕生祝いに上京して、渋谷から地下鉄に乗ろうとしたら、地下に行く階段がない。ほとほと探し疲れて見上げたら、地下鉄が上を走っていたという話を面白おかしくしてくれたことがあります。叔父はなんでも笑い話にする人で、シベリア抑留の話も、「もっと聞かせて」とせがむほど、愉快な話ばかりでした。
丸の内線ができたのはいつだったか、私は高校の三年間、丸の内線で通いましたが、当時は地下鉄は初乗りが20円(国鉄は10円)と高かったのですが、全線20円でした。定期だと全部の駅に降りてよかったので、渋谷、新宿、池袋、全部定期で行け、お得でした。どこも暑かったけれど、デパートに行くと涼めました。デパートは単なる涼むところでした(笑)。

昭ちゃん さんのコメント...

 その話の落ちは最高ですね 拍手、、、
地上に出ますからね。

さんのコメント...

昭ちゃん
ありがとう。亡き叔父に伝えておきます(^^♪
お酒好きで、年賀状などには大きな杯をもった顔と手足のある瓢箪を描いていて、それが自画像でした。お墓にも盃を持った笑顔の瓢箪の大きな絵が派手に刻んであります。社会科の先生でしたが、古墳発掘などで全国を飛び回り、毎日大酒を飲み、幸せな人生を送った叔父でした。