2015年5月22日金曜日

石のビー玉


世の中のことで、知っていることはほんの少しです。
プラスティックレンズの眼鏡がどうして100円でできるのか、合成洗剤の成分はなになのか、知らないことばかりです。
ガラスのビー玉の製法はおぼろげながら知っていましたが、石をどうやったらビー玉のように丸くできるのか知りませんでした。
もちろん、今ではコンピュータつきの機械でわけなくできるのでしょうけれど、昔はどうだったのでしょう?


そんな、石のビー玉のつくり方が、『西洋珍職業づくし』(ミヒャエラ・フィーザー著、悠書館、2014年)に載っていました。

この本は、すでに消えてしまった、ヨーロッパの職業を紹介している本です。
消えてしまった職業の中には、炭焼きのように青銅器時代から二十世紀初頭まで続いたものもあれば、にせ医者のように、いろいろな時代に現れては消え、消えては現れたもの(今もいる?)もあれば、コーヒー嗅ぎ担当兵のように、コーヒー販売を独占して利益をあげるために、密輸を取り締まろうと王の思惑でつくられたものの密輸が後を絶たず、ごく短期間で消えたものもあります。

著者は、いろいろな地域をまわって文献を発掘し、さまざまな職業にたどり着いています。
例えば、小便壺清掃人は、ローマ時代はクリーニング屋だったという話。ローマの男性が着ている白い長着は集めた尿で洗いました。ローマの高官が着た白い長着は、尿を使った洗濯によってのみ、染み一つない状態を保たれたなんて、なんか哀愁が漂う話です。
ポンペイの壁画には、長着と尿を桶に入れて、子どもが踏み洗いしている絵が残っているそうです。
尿はその後、毛織物の加工に使われ、イギリスでは二十世紀半ばまで使われました。

余談ですが、この本を読むと、今では地球上、どこに行っても人々は、スマホを持ちたいだの似かよった価値観を持っていますが、歴史的にはまったく違う価値観を持ち、違う道を歩いて来たんだなぁということが、改めて思われました。

さて、石灰石を磨いてつくるビー玉職人の話です。
ドイツ、ザルツブルグの大理石の美しくて丸いビー玉は他に類がなく、十八世紀半ばまで、ヨーロッパ全域におもちゃとして運ばれていました。ザルツブルグの人々は丸いビー玉をつくる技術の秘密を守っていたので、誰も真似できませんでした。
ところが1732年、ザルツブルグの(ビー玉職人を含む)三万人を超えるプロテスタントが、宗教上の理由で追放されました。
多くの人たちがプロテスタントに寛容な北へ向かい、途中、テューリンゲンも通りました。そのとき、テューリンゲンの人たちはザルツブルグのビー玉のことをもともと知っていたらしく、製法を聞き出し、初めて製法の秘密がザルツブルグの外に伝わりました。
テューリンゲンでは、ビー玉製造用の水車を設置することからはじめて、製造開始までに三十年以上かかりましたが、やがてビー玉づくりが軌道に乗りました。

1880年ごろの最盛期には、テューリンゲンのビー玉製造工場は、世界各地に一億三千五百万個のビー玉を輸出しました。
テューリンゲンのビー玉は大理石ではなく、貝殻石灰石製で安価だったので、子どものおもちゃとしての役割はやがて小さくなり、おもに海戦で使われました。弾丸として、石のビー玉は船の索具をずたずたにすることができたからです。
帆を使わない蒸気船が登場して、初めてビー玉を使う攻撃方法に終止符が打たれました。

また、直接的な武器としてだけでなく、テューリンゲンのビー玉は販路に事欠きませんでした。チリ、アフリカ、インド等に運ばれ、ビー玉と交換に、香辛料、奴隷、象牙などが、ヨーロッパにもたらされたのです。
アフリカやアメリカでは、ビー玉を壁に埋める装飾として使われたそうです。


石のビー玉のつくり方です。
石灰岩は採掘し、叩いて均等な大きさのサイコロ状にしました。 イラストはその小さな立方体をつくっているところです。
サイコロ状の石は、水車を持つ研磨職人のもとに運び込まれました。テューリンゲンの川沿いに100以上建つ水車では、溝のある鋳鉄の臼の上に、一度に約700個のサイコロ状の石が置かれ、堅いブナ材の制御棒を下ろすと水車が回りはじめ、臼の中で石と石が擦れて、丸くなりました。
石のビー玉は、やがて現れたガラスのビー玉と対抗するため、いろいろな色に染められるようになりました。
テューリンゲンのビー玉づくりは、第一次世界大戦終結まで続きました。


これは、前にも一度UPしたことがありますが、現代のもの、インドネシアのバリ島でつくられたチークの台と大理石のビー玉のゲーム、ソリティアです。


これまで、天然石だとばかり思っていましたが、『西洋珍職業づくし』には、石の染め方がいろいろ書いてあります。



もしかしたら、赤、青、黄色などの石は、染めたものかもしれません。


それにしても、石だけでなく、穴の彫り方にもうっとりです。
いくら機械を使うとはいえ、どこにも傷などない、お見事としか言いようがありません。






10 件のコメント:

昭ちゃん さんのコメント...

 わー凄い根気と時間ですねー
もっとも勾玉でも加工の手間は同じでしょうが、
「気送装置」
小さい頃父に連れられて問屋街へ
天井には絶えず動くロープに付けられた伝票がゆらつらと、
東京駅前の中央郵便局で見たような、
送るときパタンと音がしました。
圧搾空気かなー

さんのコメント...

昭ちゃん
気送郵便の実物を見たのですか?すごい!
これは、文を読んでもどんな仕掛けかわかりませんでした。今のケイタイのように大流行り。渋滞した地上配達に代わってあっという間に行き来して、手紙だけでなくプレゼントも送れたようです。イラストも載っているのですが、それを見てもどうやって送れたのか理解不能(笑)、送ったものには傷もつかなかったそうです。
炭焼き職人もおもしろかったですよ。19世紀にはもっとも自由人でいられる職業として憧れられ、国王が見に来るときでも、顔を洗わないで謁見できる唯一の職業だったそうです。
炭の発見がなければ青銅器も鉄器もなかったのですが、おかげで、地球はどんどん丸坊主になってしまったそうです(笑)。

昭ちゃん さんのコメント...

父は大の子供好きだったのでどこえでも、、、
口やかまし祖母と世間知らづの母に挟まれた息抜きだったようで。
 昭和2年開通した地下鉄にも抱かれ当時珍らしい自動改札を通りました。(十字型で木製)
 まだ字が読めないけれどビリヤードにも、
キューと玉のマークと米屋の字は早くから知っていましたよ。(大笑いでしょー)

さんのコメント...

昭ちゃん
いいお父上といい子どもでしたね。
私の父も休日に家族でどこかへ行くのが大好きでしたが、戦後のことで、大きくなってから初めて会ったし、もっと大きくなってから初めて同居したためうっとうしくて(笑)。
でも勝鬨橋が上がるのとか、豊島園とか行きました。引っ張られて行かなかったら、きっと見ずじまいだったでしょうね。

昭ちゃん さんのコメント...

 またまた懐かしい言葉を、、「勝鬨橋」
くどくどごめんなさい。
どこからでも跳ね上がった両サイドが見えた時代ですね。
私の時代は多摩川遊園地でした。

さんのコメント...

昭ちゃん
勝鬨橋を見に行ったとき、母は当時流行っていた全円のスカートをはいていました。子ども心にも暑そうに見えて(夏休みだった、笑)、変なことを覚えています。あのころ、冷房はデパートだけでした。
あっ、それから講談社の絵本に『東京見物』というのがあって、勝鬨橋、豊島園のウオーターシュートの跳ねた絵、山手線から見えた銀座四丁目の森永の球形のネオンサインなどの絵が載っていました。すっかり変わってしまいました。

昭ちゃん さんのコメント...

ウオーターシュートの兄ちゃんは
着水の水ひぶきと同時に飛び上るので昔から有名です。
よくのったなー

さんのコメント...

昭ちゃん
こんな話していたらきりがないけれどバナナのたたき売りも覚えています。母の知人が初めてお給料をもらって、バナナを6本買い、家族に内緒で全部食べようとしたら、途中で気持ちが悪くなったって(笑)。当時のバナナは一本100円でした。高っ!

昭ちゃん さんのコメント...

 家内の話
中学でて働いた給料で東京から来た姉の子に
やはり一本100円だったそうです。
「こんな高いものを買ってー」
姉から怒られたとか、、、、。

さんのコメント...

昭ちゃん
胡椒と金を等価で交換した話、ビー玉と奴隷を交換した話など笑えません。たぶん、おそばが20円の時代でしたね。