『お蚕さま(おこさま)物語』(角田新八写真集、上毛新聞社、2014年)です。
東宣江さんがfacebookで紹介されていて、知りました。
東さんご夫婦は、蚕を育て、繭をとり、それを糸にすることを生業(なりわい)としていらっしゃいます。生業にしていると言っては言い足りないかもしれない。二人の暮しのすべてが、明けても暮れても「お蚕さま」とつながり、お蚕さまを中心に回っている、「蚕オタク」と言ってもいいご夫婦です。
その生活ぶりは、ブログ「蚕糸日記」に詳しく綴られています。
『お蚕さま物語』の表紙は、奉納された繭でつくられた額の写真で、とても興味深いものでした。
招き猫と養蚕の関係、とくに養蚕どころの群馬県高崎の張り子の招き猫と養蚕が、いったいどんな関係にあったのか、興味津々の私は、『お蚕さま物語』を注文してしまいました。
中には、養蚕風景とともに、養蚕にまつわる信仰の写真がいろいろ載っていました。
大変興味深いものでしたが、肝心の招き猫との関係についてはわからずじまい、わずかに奉納された一枚の絵に、猫が見られただけでした。
以下、『お蚕さま物語』に見る、養蚕に関する信仰のいろいろです。
中之条町折田 |
絹笠明神像は、茨城県ではあまり見られませんが、群馬や長野ではよく見られる、養蚕の神さまです。
絹笠明神は、手に繭、桑の葉、糸を持っています。
みなかみ町東峰、2008年(撮影年) |
猫に関して、一葉だけあった、奉納された絵です。
中之条町四万貴湯平、2010年 |
予想外だったのは、養蚕農家に、広く篤く浸透している稲荷信仰でした。
お稲荷さんは、稲成、稲生とも書くように、稲作の神さまだと思っていましたが、養蚕農家にも信仰されていたのです。
写真は、養蚕の無事を祈って奉納された鉄砲狐たちです。
水上町真沢、2012年 |
養蚕農家は、この稲荷神社から借りた狐を一年間、それぞれの屋敷稲荷に祀り、翌年その鉄砲狐に新しい狐を添えて、奉納するのだそうです。
神さまを祀るお仮屋は、毎年新しくつくる。沼田市石墨町、2008年 |
これが屋敷稲荷です。
屋敷稲荷へ捧げる供物。
高山村中山、2011年 |
今でも、初午の日には、鉄砲狐が売られています。
どうして、稲荷信仰なのか?
ネット検索してみると、猫同様、狐もお蚕さまの敵である鼠を獲ったとのこと、それで稲荷信仰と養蚕が結びついたようでした。
群馬はどちらかと言えば、米より麦の県ですから、もともとの、麦栽培への稲荷信仰があり、それが養蚕にまで拡大したのかもしれません。
中之条町四万 |
ところで、庚申さまって何?
庚申(こうしん、かのえさる)信仰はとても古い信仰ですが、時代に合わせて変化したり、他の宗教と合体したりした複合信仰で、江戸時代に最も盛んになり、大正時代以降衰えました。
渋川市石原、2010年 |
庚申とは猿つながりで、猿田彦も信仰されました。
渋川市赤城町深山、2010年 |
そして、何故か天狗も。
みなかみ町入須川 |
馬鳴菩薩も信仰されました。
残念ながら、高崎の招き猫との関係はわからずじまいでしたが、群馬県には、もしかしたら猫の石像もないのかもしれません。
ブログ「神使の館」より。栃木県那須塩原市黒磯 |
お隣の、栃木県には、熊田坂の温泉神社に養蚕農家が奉納したらしい猫の石像が祀られているようです。
小正月の神棚をにぎわすまい玉、東吾妻町泉沢、1994年 |
どんな仕事にも過酷な労働はつきものですが、養蚕もまたきつい仕事でした。昔読んだ、丸岡秀子の『ひとすじの道』は、子どもだった著者が養蚕に明け暮れる姿から、自伝がはじまっていました。
東宣江さんのブログでは、育てていた山繭がアシナガバチに狩られてしまった様子が書かれていました。
タイのお蚕さまの最も恐ろしい敵は蟻でした。
鼠、蜂、蟻、そして病気など、さまざまな障害の中で、きつい養蚕をしてきた人たちの神々に祈る気持ちは、心が折れないための、大切なよりどころだったのだと思いました。
2 件のコメント:
こんばんは。
以前、長野の佐久市にある「鼻顔稲荷神社」に行ったのですが、
狐さんと一緒にカイコ繭で文字の書いてある額が飾ってありました。
養蚕が盛んだからかな?と思っていたのですが・・・なるほど~!!
お稲荷さんにあるのには意味があったのですね!
しまとかげさん
私も全然知りませんでした。もっとも、「稲荷信仰とは何か?」ということは、今でもよくわかってはいないのですが。
養蚕より稲荷信仰の方が先でしょうから、うまく当てはまったのでしょうね。そういうことは今もあって、いろいろなお寺や神社で交通安全のお払いをしてくれたり、入試の合格祈願を祈ってくれたりしますが、それと同じようなものかもしれません。もっとも切実度は、「蚕を守りたい」と言う方がずっと強かったと思いますが。
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