2022年2月13日日曜日

窓サッシ

窓を取りつけています。
窓は、外がアルミ、内側が樹脂のサッシです。母屋は北側の数か所を除いては木のサッシを使いました。作業棟は、気密性がそう求められていなかったことから、建具は全部自分でつくりました。
というわけで、工場製品のサッシを本格的に扱うのは初めてです。しかも、コストを抑えるためできるだけ既製サイズのものを使っています。


施工的には、外からはめて釘打ちするだけ、超簡単ですが、金属はでこぼこしていて、視覚的に美しく仕上げるには難しいものがあります。で、壁と同じように、窓サッシの周りにも額縁をつくっています。


窓サッシは柱と柱の間に収めるのですが、既製品ですから。サッシの両脇に空くスペースが場所によって違ったものになります。


例えば、納戸の窓は柱と柱の間にやっと収められる大きさなので、額縁は、柱にまではみ出しています。


ところが、主寝室の北側の窓は、両脇に細い壁ができています。
これは、額縁だけつくったところの写真で、その脇の細い壁はまだ張っていません。
夫は単に縦材を入れればいいじゃないかと言っていますが、私は、3センチ厚みの本実(ほんざね)の板の切れ端があるので、しこしこちまちまと、短い板を張っていこうと思っています。


そして、これは主寝室の西側の窓です。
これはまだガラスが入ってないので、引き戸のようです。窓の下だけでなく上にも壁がくるようですが、左右は結構ぎりぎりです。これもサッシの周りに額縁を回すと、柱にまでかかりそうです。
窓サッシをはめている夫は、
「場所によって一つ一つ違うんだから、どう処理するか頭を使え!」
と言っています。
まだまだ試行錯誤、やっと慣れたころには、もうつける窓が終わってしまったということになりそうです。





6 件のコメント:

rei さんのコメント...

ひと手間ひと手間掛けて、まるで工芸品の様に作り上げられていく様子を拝見すると、家を造る事の意味を改めて考えてしまいます。

昨日は、杉並区に残る同潤会住宅の最後の1軒の取り壊し前の見学会に参加しました。丁寧に造られ、住み継がれて来た家が壊され、そこに5軒の住宅が建てられるとの事。最近はその様な事例ばかり見て来ましたので、これからの日本の都市の町並みは、高層ビル(マンション)とハウスメーカーの住宅で埋め尽くされる姿しか想像できません。

家は3Dプリンターで造るのが当たり前、大工って?の時代が来るのでしょうか。
コンピュータを知らなかった時代を経験している私達世代が、今を見ると、そんな馬鹿なとあながち否定できません。

そうなったら、落日荘は本当に伝統工芸品です。

さんのコメント...

reiさん
過分なお褒め、ありがとうございます。
私も同潤会住宅の最後の一軒の記事を、東京新聞で見ました。玄関の五角形のガラスとか板張りの外観とか、最近の住宅にない手作り感がありますね。

新築の家の見学会などに行って、「あれっ?」と思うのは木をふんだんに使っていても、最近の家はまるで工場製品のような無味乾燥さがあることです。家は手を掛ければかけるほど温もりが出てくるのかもしれません。
同潤会は表参道のアパートの方は、取り壊す前に友人が事務所として借りていたので、見たことがあります。もう昔のことでよく覚えていませんが、わくわくするような空間だったと思います。

hiyoco さんのコメント...

同潤会の戸建てがあったなんて知りませんでした。しかも10年間利用していた荻窪駅の近くに。
表参道や代官山の同潤会アパートは、好きな雑貨屋さんや服屋さんが入っていたので何度も行きました。壁がザラっとした質感で表情がある建物が素敵でした。外観と中のお店にギャップがあるのも面白かったです。

さんのコメント...

hiyocoさん
私も、新聞を見るまで戸建ては知りませんでした。一区画145坪といいますから、跡地に5軒建ってもおかしくないけれど、東京じゅうをどこまで細分化するつもりなのでしょうね。
同潤会アパートは、表参道だけでなく日暮里というか鶯谷というか、あの辺りにもあったのは、前を通ることがあったので知っていました。それは表参道のとよく似ていましたが、今調べたら、三ノ輪とかいろいろなところにも同潤会アパートはあったのですね。
私が学生のころはまだ原宿は寂れていて(笑)、でもあっという間におしゃれな街になってしまいました。

rei さんのコメント...

同潤会は戸建て住宅もかなりの数建てられました。中野区江古田にも20軒?程建てられましたが、1軒だけ残っています(佐々木邸)。維持していらっしゃるのは大学の先生で、生まれ育ったその住宅を大切に手入れしながら住み続けていらっしゃいます。たった1軒でもの実在するか否かは大きな違いです。

ご存知の様に集合住宅も各地に建てられましたが、面白いのは、文京区大塚に建てられた大塚女子アパートです。昭和4年築だったかと思いますが、当時としては諸設備の整った贅沢な造りで、裕福な家庭のお嬢様達やキャリアウーマン(死語?)が住んでいたそうです。作家の戸川昌子も住んでいて(お母さんが管理人)、小説にも登場しています。前面道路の拡張で曳家されたのですが、「テーブルの上の水を入れたコップから少しでも水が溢れたら承知しないわよ。」との女子達からの条件付き工事だったそうです。

さんのコメント...

reiさん
まったく知りませんでした。
自分の高校が文京区大塚2丁目にあり、大塚女子アパートが3丁目、それもどちらも春日通りに面していたとしたら女子アパートを何度も目にしたはずです。当時はどこもかしこもレトロな建物ばかり、全然気にしてなかったです(笑)。
品川に住んでいた私は、東京駅から丸の内線に乗り換えて茗荷谷で降りて学校まで歩いていましたが、家から歩いて5分のところに住んでいた同級生は、五反田駅の方が近いからと大塚まで山手線、あとは都電で学校前に降りていました。
大塚駅前にあった眼鏡屋の娘も同級生で、あのあたりよく歩いたのに、全然知りませんでした。学生を満載した都電の走る姿、目に浮かんで懐かしいです。