2022年2月7日月曜日

原爆のこと

お正月に来ていた長男と、どんな漫画家が好きかという話をしていたとき、
「『この世界の片隅に』がすぐ出る?」
と訊かれました。
前に彼が買ってくれて、その後、映画も見に行きました。
 「あぁ、出るよ」
と探したのですが、見当たりません。誰かに貸してしまっているようでした。
「こうの史代の『夕凪の街 桜の国』は持ってる?」
「持ってない」
息子がすぐに注文してくれました。


『夕凪の街 桜の国』(双葉社、2004年)には、夕凪の街、桜の国(一)、桜の国(二)の3つの物語が描かれています。
夕凪の街は、原爆投下の10年後の、皆実ちゃんの物語、桜の国(一)は原爆投下から約40年後の七波ちゃんの家族の物語、そして桜の国(二)は、原爆投下から60年後の七波ちゃんの家族の物語で、七波ちゃんのお父さんの旭さんは、皆実ちゃんの弟です。
桜の国(二)には、旭さんの回想といった感じで、原爆投下から約15年後も描かれています。


シリアスな内容にもかかわらず、絵がほのぼのしていて、くすっと笑えるところもたくさんあります。
上は、会社を休んだ皆実ちゃんを心配してきてくれた同僚の打越さんを家の外でもてなしているシーンですが、


家に招じ入れられなかった理由は、全部洗濯して、お母さんが裸で寝ていたからでした。


上は疎開先の叔父叔母の養子となって広島を離れていた旭さんが、広島の大学に通うことになって実の母の暮らす、京橋川のほとりのバラックに帰って来たころの絵で、この辺りには原爆投下で家を失った人たちが、集まって住んでいました。


そして、皆実ちゃん没後50年、広島を訪ねた旭さんが、家のあったあたりにたたずんでいるところです。
お父さんがボケてしまったのではないかと後をつけてきた、28歳になった七波ちゃんの姿も見えます。


さて、これは私の母の弟(私の叔父)が、1998年に一久会(昭和19年岡山一中入学、昭和25年岡山朝日高校卒業の同期会)で話したことをテープおこしした冊子です。
14歳だった叔父は、学校命令で教師1人と生徒5人とともに広島に出かけ、到着した次の朝、路面電車のシートに座ったところで原爆に遭いました。帽子の下の頭から首にかけて割れた電車の窓ガラスが突き刺さり、骨まで見えるほどの怪我をしました。電車を降りると、怪我をしなかった友人たち3人が待っていてくれて、のちに先生とも合流、友人が拾ってきた担架に乗せて運んでくれて野戦病院で傷口を消毒してもらったものの、そこではそれ以上の治療ができず、列車が開通すると、担架に乗せられたまま岡山まで運んでもらいました。
担架は、道端で友人が見つけたもの、乗せられていた人が死んでいたので降ろして拾ってきたとか、広島から岡山までの列車の中では、叔父は見世物状態であったとか、親切な女性がなけなしのやかんをくれたとか、痛さでうなりながら叔父はいろいろ観察しています。
帰宅してからも、叔父はその担架に乗せられて、入院できるまで毎日2キロの道を通院しました。やっと入院することができましたが、傷口はなかなかふさがらず、死線をさまよい、叔父の母(祖母)は何度も、お医者さんから「もうだめだろう」と通告されました。
そんな叔父でしたが、1年ほどの闘病で奇跡的に助かり、私が知っているころは、白血球の数は半分ほどだったらしいのですが、元気でした。
私や私の家族は、叔父の口から原爆の話を聞いたことは、一度もありませんでした。それは叔父の友人たちも同じでしたが、1998年になってから、友人たちは叔父にぜひ同期会の集まりで原爆のことを話してくれと食い下がり、とうとう叔父は話す気になったようでした。
しかし、そのときの一度きりで、その後も、叔父は原爆について話すことなく、明るい生涯を送り、85歳で食道がんで亡くなりました。

母のきょうだい。真ん中が被爆した叔父

叔父の話も、読みなおしてみると悲惨ではありますが、あちこちにユーモアがあります。
何故、数人が選ばれて広島に行ったかということは、行く前も後でも秘密にされていたようですが、叔父は、戦局が終わりに近づき、優秀な兵隊がいなくなったので、教練の検定に合格した生徒の中でも優秀だった者を前線に送ろうとしていたのではないかと推測しています。
検定の合格者名簿は、6月29日の岡山の空襲で焼けて焼失していました。そのころ、岡山は広島軍管区司令部の管轄下にあったので、広島に合格者名簿の原本はあるものの、それを直ちにコピーして岡山に送るなどといった時代ではありません。
叔父は、教師からしつこく勧誘された理由を、成績優秀、眉目秀麗、字が上手な者を選んで候補にしたのではないかと話しています。長年の友人たちの前で、笑いを取ったのに違いありません。

さて、『夕凪の街 桜の国』の夕凪の街の章で、原爆投下から10年目に皆実ちゃんが急に体調を崩してどんどん悪くなったとき、

 十年経ったけど
 原爆を落とした人はわたしを見て
 「やった!またひとり殺せた」
 とちゃんと思うてくれとる?

という心の声が書かれています。

 ひどいなあ
 てっきりわたしは
 死なずにすんだ人
 かと思ったのに

と思いながら、皆実ちゃんは死んでいきます。

叔父は被爆者でしたが、85歳まで生きました。
晩婚ではありましたが明るい家庭を持ち、ピアノを弾きギターを弾き、楽しい人生を送りました。
そんな叔父が、人並みに長生きしたのに原爆犠牲者として慰霊碑に刻まれることには、なぜか引っかかってしまう私です。原爆投下から10年後に亡くなった皆実ちゃんは明らかに原爆犠牲者だった。では、何歳で死んだ人までを原爆犠牲者というのかと言われれば、私には何の答えもないのですが。







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