小川鉄平さんは、宮崎県日之影に住みついて籠づくりをされていて、晩年の廣島さんと交流があり、廣島さんの仕事や籠師の心意気を引き継ごうとしている人です。
会場が狭いので、お話会の定員は23名でしたが、その日は、1994年にアメリカで廣島さんの展覧会を催した立役者の、スミソニアン博物館のルイーズコートさんが来日されたとかで、竹細工関係者が多数集まっていて合流され、会場はもうびっしりの人でした。
お話会は、鉄平さんに、熊本県人吉で籠づくりの修業をされた稲垣尚友さんがインタビューするという形で行われました。
後の壁にかかる籠たちは、左の二つは、廣島さんが生涯の目標とされてきた、籠づくりの名手「うしどん」がつくったもの、そのほかは、廣島さんが編まれたものです。
「うしどん」は、2013年に88歳で亡くなられた廣島さんが、籠師としての修業を始めて間もなく、一度か二度だけ会ったときには、すでに60歳を超えていたそうですから、この籠たちは100年も昔につくられたものです。
廣島さんの籠のうち、稲垣さんの後ろに見える大きな籠は、赤ん坊を寝かせるための籠で、昭和30年代に使われたものだそうです。
ちなみに、ほとんどの籠は、日之影に住む人たちが持っていらっしゃるもの、鉄平さんたちが駆けずり回ってお借りしてきた籠だそうです。
日之影や高千穂地方には、独特の背負子「かるい」があります。
これは、鉄平さんが廣島さんのかるいと、かるい一筋で、一日に十近くも編んでしまうという伝説のある飯干五男さんのかるいの違いなどを説明しているところです。
また、その昔は、籠師さんでなくても、農閑期にかるいを編める人が日之影にはたくさんいたこと、子どもたちはみんなランドセルの代わりにかるいを背負って学校に通ったことなど、かるいにまつわるお話は、なかなか興味深いものでした。
この日竹細工関係者の集まりがあったため、奇しくも、水俣で籠をつくっている井上克彦さんとも、お会いすることができました。
ずいぶん前からメールのやり取りしていて、共通の友人、知人もいるのに、お会いしたのは初めてでした。
シタミ(魚籠) |
廣島さんの籠はどれも、とっても端正です。
廣島さんの言葉に、無心で編んでいると、ときおり籠の方が自分を超えるという言葉があります。鉄平さんも、ときおり籠が勝手に編めていくというか、自分の力以上の籠ができたのを感じることがあるそうです。
中でも、私がとくに心惹かれたのはこの籠でした。大きくて使用感いっぱいのこの籠は、イダヒビ、イダ(ウグイ)のヒビ(筌、うけ)です。
メシカゴ。
これは廣島さんの仕事場にあった、ご家庭用につくられたもの、何度も洗われ、陽にさらされすっかり深い色になっています。
小川鉄平さんのお話で気がつかされたのは、もっとも一般的で、何の変哲もないと思われる丸い籠(ショウケ)が竹細工の基本であり、また難しいものだということでした。
経緯(たてよこ)に、太さの違うひごで編んできたものを立ち上げて丸くするのですが、正円と感じられる姿にすることが難しいそうです。
そして、立ち上がり方の丸みが無理なく、美しく、そして真横から見たら、縁の線が一直線に見えるように仕上げたのが、美しい籠だそうです。
ほかにも、縁巻きの竹の使い方などなど、竹細工の奥の深さを垣間見せていただきました。
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