2021年5月24日月曜日

マスク入れ

買いものに出かける時くらいしかマスクを使う機会はありませんが、バッグの中に、新しいマスクを常備しています。でも、複数入っていた袋に残りをそのまま入れているのは、口が開いているので、いつ飛び出してしまうか心配です。
何かいい袋はないかと考えていたら、かつてソニーのノートパソコンを使っていたとき、周辺機器を入れるためにつくった袋があったのを思い出しました。あのころは、時間にゆとりがありました。


インドネシアのバティクで服をつくったときの残り布でつくったもの、服の方は、私はもう着ないので、ずっと前に着てくださる方に差し上げてしまいました。


並べてみると、マスクの方がちょっと長いのですが、


大丈夫、蓋を開けてみると、ポケットは大きめでした。


ボタンを違うところにつけ替えるだけで、こちらはぴったりの大きさになりました。


もう一つの袋は、洗った布マスクを入れるのに使います。


布マスクを入れた袋は、裏に縫いつけている紐を取ってしまって、ループとボタンにつけ替えればベストですが、ちょっと面倒。当面これでも用を足します。
どちらも予備マスクですから、取り出すのが簡単である必要もありません。


使いかけのマスクはバッグの外ポケットに入れています。


残り布は小さかったので、つなぎ合わせてあります。
バティクは、小さな端布でも捨てられません。





2021年5月23日日曜日

市場籠、いいよね

先日、農産物直売所で嬉しいことがありました。
野菜を見ているとお店の人が追っかけてきて、私が買いものカートの下段に乗せていた市場籠をさして、
「その籠はどこで買えるんですか?」
と訊いてくれたのです。


制作者に直接注文して買ったことを伝えると、その方はちょっとがっかりされました。
「市場籠で検索してみてください。いろいろ出てくるはずです」
とはお伝えしましたが、もし、一度もネットで買い物をしたことがない人だったら、それだけで尻込みされたかもしれません。


この辺りでは、マイバスケットとして、スーパーの籠と同じ仕様の、桃灰色の籠が普及しています。
市場籠もほぼ同じくらいの大きさで、スーパーのカートの下段に収まるし、買いものをした後は直接入れてもらえて、見た目もプラスティックの籠より素敵で、何より使うときに楽しいと思います。値段もそう高くないのもあるので、竹の市場籠がもっと普及したら、どんなに素敵なことでしょう。
市場籠は主にはすず竹でつくられたもの、東北地方が産地です。


その昔、築地市場のあたりでは、市場籠を使っていた人がたくさんいました。だから、場外市場でも売られていましたが、この辺りでは普通には売られていません。


昔は電車で買い出しが多かったのか、市場だけでなく、電車の中でもよく、市場籠を下げた人を見かけました。


そうそう、濡れた手で触っても大丈夫なように、持ち手に透明のチューブを通した市場籠が、たくさんありました。





 

2021年5月22日土曜日

パレスチナ買ったもの

5月20日、イスラエルとガザのハマスとの停戦が実現しました。
停戦したからと言って、問題が解決したわけではありませんが、まず当面、これ以上の流血が避けられることになりました。

さて、何の関係もないのですが、私が仕事でヨルダン川西岸やガザなどパレスな自治区に行ったとき手に入れたものたちをまとめてみました。


ヨーグルトの壺は、買ったのではなく貰ったもので、その日買ったばかりの水入れの壺を抱えておじゃましたら、いただいたものです。


その時、道端で買った水入れの壺も健在です。


コーヒー臼は降ろすのが面倒、下から写真を撮るだけにしました。左奥に杵もあります。


小さいものたち、集めて並べてみると、台所道具ばかりです。
ちなみに、下に敷いた布もパレスチナの布です


オイルポットはガザのレストランの卓上にありました。
何にでもオリーブオイルをかけるといっても、レストランのメニューはどんなものだったか?まったく覚えてないのですが、フォッモス(フムス)やホブス(アラビアパン)だったのでしょう。
お店の方に、このオイルポットが買える店をしつこく訊いて、結局わからないからとお店にあったものをわけていただきました。それぞれの卓上に1つずつ乗っていて、複数あったとはいえ、厚かましいことでした。


コーヒーポットは町でも使われたかもしれませんが、ベドウィンのテントの中で使うのがぴったりのものです。


ドルマ(マハシー、野菜にご飯を詰めてスープで炊く料理)をつくるとき使う、小さなズッキーニやナスを刳り抜く道具は、なかなか使う機会がありません。
パレスチナの小さいズッキーニは指よりちょっと太いくらいのもの、日本では見かけたことがありません。
木の柄のついている方は、同僚だったY.Sさんにもらいました。Y.Sさんはアラビア語をはじめとする語学が得意なだけでなく、ピアノも上手、料理も上手で、ドルマもつくってもらったことがありました。


ハーブチョッパーも、Y.Sさんが使っていたのを見て、エルサレムの旧市街の店で買ったものでした。
これらの台所道具の中で、一番出番の多いものです。


この、にんにく潰しとオリーブの種取りの両方に使える道具は、パレスチナで買ったものですが、イタリアあたりでつくられたものでしょうか。
残念ながら、何本もオリーブを植えたのに、イノシシに掘り起こされたり枯れたりして、1本も根づいていません。オリーブの種取りをする機会はないようです。


ブリキのスコップを買ったのは、ラマッラの町はずれの雑貨屋さん。ここでは、お手洗いに置く、プラスティックの水差しも買ったのですが、日本で使うのは非現実的で、前の家に住んでいたときに持て余して、処分してしまいました。
もしかしたら、2枚目の写真も、飲み水を入れておくのではなく、お手洗いに置くためにつくられた壺かもしれません。もっとも、今ではプラスティックの水差しの方が軽くて使いやすい、土の壺を使っている家庭を見たことはありませんでした。

あと、パレスチナで買ったものは、民族服、カセットテープ、ピスタチオや殻つきのアーモンドなどのナッツ、オリーブオイルでつくった石鹸、カルダモン入りのコーヒーなどでした。
カセットテープはアザーン(モスクからの呼びかけ)を中心にいろいろ買ったのですが、今は行方不明になっています。


そうそう、コーランも買いました。


まったく読めませんが、ただの印刷の廉価版とは言え、美しい字が書いてあります。





2021年5月21日金曜日

災害


クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3.11 大川小学校事故の研究』(西條剛央、山川出版社、2021年2月)を、やっと読み終わりました。
この本は、大川小学校事故はなぜ起きたのか、二度と起きないためにはどうすればいいのかを考察した本です。

2011年3月11日、マグニチュード9.0という超巨大地震が発生し、それによって発生した巨大津波が東北から関東地方の広域を襲いました。


北上川の河口から4キロの地点にある宮城県石巻市立大川小学校(全校生徒108名)では、地震発生当時、児童が76名と教師が11名が学校にいて、校長は不在でした。
教師の判断で、全員が校庭で待機すること約50分、津波が10メートルの高さになったという情報をきっかけに、校庭より高い場所へと移動を開始した直後に、津波に呑まれてしまいました。


児童69名が遺体で見つかり、3名が行方不明になりました。また、津波に呑まれながらも奇跡的に生き延びた児童が3名、津波が来る直前に山へと走って助かった児童1名いました。生き残った教員は、避難をはじめたとき最後部にいた1名だけ、迫る津波を見て背後の山に駆け上がって助かりました。また、教師たちに避難を促しながらも学校側の判断を待っていたスクールバスの運転手も、一緒に津波に呑まれました。

十分な時間と、情報もありながら、なぜ彼らは命を落としてしまったのか、事故後の調査の結果、筆者たちは事故の構造を描き出します。
人は、嫌なことから目を反らしがちです。例えば原発、事故が起こらないだろう、まさか日本では起こらないだろう。自分がまきこまれることはないだろうと、悪い方ではなくよい方を信じようとします。
大川小学校の校庭は、防災マップには避難場所にもなっていたので、本震後、余震の続く中で、地域の人々も集まっていました。これまで、この地域は津波に襲われたことはなかったので、津波と真剣に対峙した避難マニュアルをつくるのを怠っていて、避難訓練もほとんどしてきませんでした。教師の間には、「津波はここまでは来ないだろう。大丈夫だ」という「正常性バイヤス(偏見)」が働いていました。
その2日前にも地震があり、児童と教師は校庭で過ごしましたが、津波警報が出たにもかかわらず津波は来ませんでした。そのため、「正常性バイヤス」に加えて、「一昨日も来なかったから、今日も津波は来ないだろう」という「経験の逆作用」も働きました。
児童や一部の災害研修を受けたことのある教師の、「山へ逃げよう!」という意見は、「断続的な揺れがあるので、山へ避難して児童に怪我でもさせたら責任が問われる」という「他の脅威への危機感」で、「逆淘汰」されてしまいます。
教師が、避難していた地域の人に意見を求めると、「山へ行く必要がない」と言う場面もあり、そこにいる人たちは「同調性バイヤス」に支配されてしまい、「超正常性バイヤス」というべき集団心理が形成され、気がついたら事故が起こっていました。


事故後、石巻教育委員会は、事故原因の報告書を作成します。しかし、その調査報告書は、真相を究明しようとするものではなく、組織を防衛するものでした。「避難できなかったのは仕方がなかったことにしたい」、「亡くなった教員や市教育委員会が責任を負わないで済むようにしたい」。そのため、児童の証言を記したメモやメールをすべて破棄したり、ただ1人生き残った教師にうその証言を言わせたうえ、隔離して病気で面会謝絶として誰にも会わせないようにしたりで、「不都合なことはなかったことにした」報告がされます。

遺族に寄り添うどころか、逆なでするような報告に、遺族も世間も納得しませんでした。
その騒ぎを収束させようと、2013年に文部科学省主導のもと、「大川小学校事故検証委員会」が立ち上げられました。人選に際して、遺族は地元の教員など市や県と深い関係のない人選を希望しましたが、取り上げられず、結果的には地元の大学教員などが委員に採用されました。
早々に幕引きするという目的で立ち上げられた事故検証委員会は、はじめから「問題はなかった」という前提で、調査の恣意的な解釈を行い、嘘にうそを塗り重ねようとします。
ついに、事故後の対応があまりにも悪いので、納得できない児童23人の遺族は訴訟を起こしました。そして、最高裁で、震災前の危機管理マニュアルの不備がなければ事故は防ぐことができたとして、市教委と学校の「組織的過失」を認めさせることができました。

というわけで、大川小学校は、津波という事故に襲われただけでなく、その遺族たちは市教育委員会や市の対応により、二重三重に苦しめられてしまいました。
そして、この本では津波に直面したとき、個人としてどう対応すべきかを説くというより、その背景である災害をおこさない、よい組織人を組織のリーダーとして選ぶことが、災害を回避することだと説いています。
よい組織のリーダーとは、命を真ん中においたクライシスマネジメントができる人。組織を優先させず、一個人としてのまっとうな感覚を保持したまま、個々が幸せに生きるために組織は存在するということを忘れずにいる人だと言っています。
わかるけれど、右を見ても左を見ても組織を優先する人だらけ、どうすればいいのでしょう?

防潮堤が充分とされて許可された女川原発

例えば石巻市長、敗訴の後、市長は初めて遺族に謝り、危機管理に不備があったことを反省すると言ったのですが、1年もしないうちに被災地では初めての、女川原発再稼働を許しています。理由は、国からお金が落ちて地域が活性化することだとしていますが、事故が起こったらどうするのか、そのことには目をつぶっています。つまり、津波の危機管理マニュアルをつくっていなかったのと同様に、「どうせ事故は起こらないだろう」と「正常性バイヤス」が働いて、避難計画もないままに、最悪を想定することを避けているのです。

では、リーダーを選ぶことではなく、個人としてはどうすれば災害を回避できるのか?
それについては、「確信が持てないときは、悪い方の想定を採用する」と説いています。「来るかもしれない、来ないかもしれないと迷ったときは、迷わず来るかもしれないを選ぶ」のです。
大川小学校でも、空振りになるかもしれないけれど、来る方を採用していれば、全員助かったというのです。


実際に災害が来たとき、どう対応したらいいかについては、『人が死なない防災』(片田敏孝著、集英社新書、2012年)が役に立ちます。
著者の片田さんは防災研究をしている方で、釜石市の小中学校で震災前から防災教育をしていました。
釜石の港に津波が来たとき、片田さんの言葉を守って、学校にいた子どもたちは全員命を守ることができました。また、大丈夫だという祖父を泣いて説得したり、幼い子の手を引いて逃げた子どもたちもたくさんいました。

片田さんは、津波は必ず来る、その時自分の命を守るのは自分しかないと説き、防災の3原則を、子どもたちに徹底的に理解させました。

3原則その1「想定にとらわれるな」

まず、ハザードマップを配りながら、ハザードマップを信じてはいけないことを説きます。ハザードマップを見て、自分の家が避難区域に入っていない子どもはすぐ喜んでしまいがちですが、「これはあくまで明治時代に来た津波のこと。いつ防潮堤や防波堤を越える津波が来るかもしれない」と話を進めます。
ハザードマップを配りながら否定するという流れで、子どもたちは固定観念を持っている自分に気づくことができます。
3原則その2「最善を尽くせ」
次に来る津波がどんなものかわからない。もしかしたら死ぬかもしれない、でも最善を尽くせと説きます。
普通、がんばれば好転すると説くものなのに、「がんばれ、でも死ぬかもしれない」と話すのはいかがなものかと問題になったこともあったようでしたが、子どもたちにはより真剣に受け止められる効果があったようです。
3原則その3「率先避難者たれ」
その1とその2は、自然災害に対する「姿勢」ですが、姿勢が行動に結びつくとは限りません。そこで、子どもたちに、「最初に逃げろ。何を置いても真っ先に自分の命を守れ」と伝えると、子どもたちはけげんな顔をして、「自分だけ逃げていいの?」と訊き返すそうです。そこで、「学校の非常ベルが鳴ったとき逃げたか?」と訊くと「逃げなかったよ」という答えが返ってきます。
非常ベルが鳴っても、また訓練かとか誤作動かと思い、自分が危険な状況に置かれているとは思いたくないので、「正常化の偏見=正常性のバイヤス」が働いて、最初に届いたリスク情報を無視します。
そして、火事だとか、津波が来るという、二次情報、三次情報がやってきて、やっと避難を開始します。片田さんは、
「人間は元来逃げられないんだ。みんなが「大丈夫だよな」と言いながらその場にとどまっていると全員が死んでしまう。だから最初に逃げるのはすごく大事なこと。だけど、これが難しい。考えてみよう。非常ベルが鳴って最初に飛び出すのって、かっこ悪いだろ。だいたいが誤報だからね。戻ってきたらみんなに冷やかされる。そんなこと考えると逃げたくなくなるよね。でも本当に災害が起こったとき、みんながそう考えていたら全員死んでしまう。だから君は率先避難者にならなくてはならない。人間には「集団同調」という心理もあって、君が本気で逃げれば、まわりも同調して逃げはじめる。つまり君が逃げるということは、みんなが助かるということにつながるんだ」
と、話します。

そして、片田さんが釜石に通い始めて8年目に巨大地震が起こります。
釜石の大槌湾の近くに、釜石唯一の中学校の釜石東中学校があります。その隣には鵜住居小学校があります。
釜石東中学校はその日、校長先生が不在でした。教頭先生がすごい揺れの中、床を這うようにして放送卓まで行ったのですが、停電のため放送はできませんでした。しかしそのとき、すでに、生徒たちの廊下を駆け抜けていく足音が聞こえました。
教頭先生がやっとつかんだハンドマイクで校庭にいる生徒たちに避難指示を出そうと立ち上がったときは、生徒たちはすでに全力で走っていました。ある先生が「逃げろ!」と叫んだのを聞いて、最初に逃げたのはサッカー部員たちでした。グランドに地割れが入ったのを見た彼らは、校舎に向かって、「津波が来るぞ!逃げるぞ!」と大声を張り上げ、そのまま走り始めて鵜住居小学校の校庭を横切ります。そして、小学校の校舎に向かって、「津波が来るぞ!逃げるぞ!」と声を掛けながら、避難場所に決められた「ございしょの里」に向かって、全力で走っていきました。
サッカー部員たちは、「率先避難者」となったのです。

鵜住居小学校の3階には自動車が突き刺さっており、津波は屋上を越えていた

鵜住居小学校は、耐震補強が終わったばかりの鉄筋コンクリート3階建てで、ハザードマップでは津波の来ないエリアにありました。当日は雪が降っていたこともあって先生方は児童たちを3階に誘導していました。ところがこの2つの学校は、普段から合同で「ございしょの里」まで逃げるという避難訓練をやっていました。
小学生たちは、日ごろ一緒に訓練している中学生たちが全力で駆けていくのを窓から見て、3階から降りてきてその列に加わりました。結局約600人の小中学生が「ございしょの里」」に向かいました。


この地方では、津波に一番詳しいのは中学生ということになっていました。学校の近所に住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんたちも、その中学生たちが血相を変えて逃げていく光景を見て、一緒に逃げ始めました。
同じ地域にある鵜住居保育園でも、保育士さんたちがゼロ歳児をおんぶして、ほかの小さな子どもたちを5、6人乗りのベビーカーに乗せて坂道を上がりました。中学生はベビーカーに乗れない子どもたちを抱き上げたり、押すのを手伝いながら、みんなで「ございしょの里」に入りました。

津波の後の「ございしょの里」。左側の山は崩れている

ところが、「ございしょの里」の裏の崖が地震で崩れかけていたのに気づいた中学生が、「先生、ここ、崖が崩れかけているから危ない。それに揺れが大きかったから、ここも津波が来るかもしれない。もっと高いところに行こう」といいました。


さらに高台に、「やまざき機能訓練デイサービスホーム」という介護施設があります。子どもたちが、「先生、やまざきに行こう、やまざき」と言いはじめますが、そのころには津波は町に到達していて、防波堤に津波が当たって水しぶきが上がる光景が見えました。家々が壊れ、土煙も上がる光景も見える。それを見た小学生が、「あぁ、ぼくんちが!」と泣きじゃくるような情景でした。みんなは懸命に「やまざき」をめざしました。
どうにかこうにかみんなが「やまざき」に逃げ込んだ直後、津波は「やまざき」の手前までやってきて、そこでがれきが渦を巻いていました。

海は写真の右にあり、この方向には見えない。子どもたちが見ているのは家を倒しながら渦を巻く津波

それを見た瞬間、子どもたちは移動を開始、懸命に逃げ、さらに高台にある石材店まで行きました。
やまざきも津波に吞まれ、本当にギリギリのところで全員が生き延びることができました。もし、ハザードマップを信じていたら、2つの学校の生徒や児童は逃げることもせず、1人も生き残ることができなかったことでしょう。


しかし、片田さんはまだまだだったと反省しています。子どもたちに防災教育をしているけれど、子どもを通して大人たちにも防災教育をするのが目的なので、釜石で1000人もの死者が出たことを残念がっています。
とくに、津波のハザードマップで津波が来ないとされた地域で大勢の死者が出てしまいました。また身体の悪い高齢者や介護施設の釈院なども逃げられなかった、それらの人たちを救えなかったのです。
子どもたちの家族とは、日ごろから、災害のときは子どもや親の安否を気にしない、各自で全力で逃げると取り決めていたので、ほとんどの親たちも無事でした。
しかし、当時中学生で今は「いのちをつなぐ未来館」で防災のために働いている菊池のどかさんは、もっと親たちと徹底して話し合うべきだったと反省しています。というのも、子どもたちが避難している写真の後で、海の方を向いている車は、子どもたちを迎えに来た保護者たちだったというのです。

どちらの本でもいえることは、主体性を持つということでしょうか。
自分の生存を、防潮堤があるからとか、政府が安全だと言っているからなど安易に信じないで、何ごとも自分で主体性を持って考えてみる。そうすれば、原発の稼働をどう考えたらいいのか、自然災害はあるけれど、その自然が豊かな実りをもたらしてくれている日本でどう生きたらいいのか、コロナにはどう対応したらいいのか、オリンピック・パラリンピックはどう考えたらいいのか、自然に答えが出てくるような気がします。

ちなみに、何度も山へ逃げようと提案しながらも聞き入れられず、最後部にいたため反射的に山へと逃げて生き残った大川小学校の教師は、児童たちを死なせ、市教育委員会に強要されたとはいえ嘘の証言をし、自分だけ生き残ったことを責めて、今でも立ち直れていないそうです。








 

2021年5月20日木曜日

しかたないよね

少し前から、また古い掃除機が壊れていました。
電源を入れることができるですが、モーターが回っているのに吸い込みません。しばらく放置していましたが、雨の日に夫に修理を頼んでみました。
夫がほいほいとなおし始めてしばらくすると、家中の電気が消えました。
掃除機をなおして、動かそうとスイッチを入れたらショートして、ブレーカーが落ちたのです。


「もうだめだな」
引導を渡されました。
寿命20年と言われていましたが、35年間よく働いてくれました。
いまどきコードがついて、しかも重い掃除機なんて誰も欲しがらないらしいのですが、我が家にはもう一台重い掃除機があります。


そういえば最近、建設現場で使うため、業務用集塵機というものを買いました。
集塵機はこれで3台目、過去2台は安物を買ったせいか、手入れが悪かったからか、ずいぶん前に壊れて使えなくなっています。
どれにするか、最終決定は私が任されたので、軽くてコードレスの掃除機にしようか、重くてコードもついているけれど水も吸い取る集塵機にしようか、迷いに迷いましたが、ネット上での評価をじっくり読み比べて、集塵機にしました。
集塵機を買ったのは、屋根に積もった枯れ葉のクズなど、小さなゴミを取り除くためだったのですが、夫は使う段になって、
「なんだよ。重すぎるよ。コードも面倒だよ」
とぶつぶつ文句を言っています。確かに重く、屋根までそれを担ぎ上げるのもたいへんでした。
説明書には、毎日、たまったゴミを取り除かなくてはならないと書いてあったのに、その集塵機はいまだ一度もゴミも出さず、高いところに乗せて雨除けのカバーをかぶせたまま。夫が掃除しないなら、私がしなくてはと思いつつ、早何日も経ってしまっています。








2021年5月19日水曜日

パレスチナ

何か言ったからといってどうにもなりませんが、言わないで見過ごすことはできません。
中川泰秀防衛副大臣の、「私達の心はイスラエルとともにあります」と発言したことに、戦慄が走りました。
イスラエル占領の歴史を知っているのかしら?
今回の紛争がなぜ起こったか、そのきっかけを知っているのかしら?
ハマスが人々から浮いた、例えばイスラム国のような集団と混同しているのではないかしら?

パレスチナ自治区のイスラム原理主義組織ハマスは、2001年、9.11後にアメリカ(国際社会)から「テロ組織」と指定されましたが、欧州司法裁判所は、2014年に、ハマスのテロ組織指定を解除すべきとする判断を下しています。
ハマスは最近では抵抗するために軍事組織も持ってはいるようですが、江戸に例えると火消し集団のようなもので、いつもは市井で普通に暮らしている、老若男女に支持されている人々です。

5月17日に、パレスチナ・イスラエルの現状を間近で見ている日本の非営利団体(NGO)が、イスラエルとパレスチナの停戦を求めて、外務大臣あてに共同声明を出しています。
以下、その声明文を掲載します。


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茂木敏充外務大臣

2021年5月17日

日本の NGO 団体による声明

イスラエルおよびガザに一刻も早い停戦を

5月16日現在、ガザでは58人の子どもを含む192人が犠牲となり、イスラエルでもインド人移民労働者を含む10人が犠牲となっています。これ以上多くの生命が奪われることがあってはなりません。

私たちは、現在パレスチナのガザ地区で続いているイスラエル軍による空爆や砲撃や、ガザからイスラエルに向けたロケット弾の発射を即時停止するように求めます。一刻も早い停戦に向け、国連安全保障理事会および中東カルテット(国連、米国、ロシア、EU)が歩調を合わせて調停に乗り出すようはたらきかけるなど、日本政府としての停戦に向けた外交的努力を求めます。

【事態の背景】

ガザでは、5月10日から続く爆撃の下、市民は恐怖で一晩中眠ることができず、住宅地への爆撃で多くの人たちが家を失い、あるいは損害を受け、多くの犠牲者が出ています。

イスラエルのネタニヤフ首相は攻撃を継続すると表明していますが、これ以上の武力行使は、双方の市民の犠牲を増やすこととなり、2014年の戦争がもたらした事態(パレスチナ人民間人1,462人を含む 2,251人が死亡し、1万1 千人以上が負傷。イスラエル側も67人の兵士を含む73人が死亡)の再現につながります。ガザ地区は 350平方キロほどの細長い狭い地域で、イスラエルによる封鎖下に暮らす約200万の人々はここに閉じ込められ、外へ逃げ出すことはできないからです。

私たち日本のNGOは、ガザ地区を含むパレスチナで、戦争で障害を負った子どもたちを含む民間人への保健支援や農業支援、職業訓練を含む自立支援等を続けてきました。現在も、封鎖によって破壊から復興しないまま厳しい生活を続ける乳幼児や障がい者、妊産婦などへの保健支援、職業訓練、教育支援を行っています。新型コロナウイルス感染拡大で増大した特に子どもや障がい者、妊婦などの脆弱性が、この事態でさらに深刻になることを大変に危惧しています。

衝突が激化したきっかけは、4月12日にイスラム教のラマダン(断食月)が始まると間もなく、エルサレム旧市街にあるイスラム教徒地区のダマスカス門前の広場を、イスラエル警察がセキュリティを理由にバリケードで封鎖したことです。イスラエル警察や軍への怒りからパレスチナ人による激しい抵抗デモが起こりました。5月10日には、イスラム教の聖地「アルアクサ・モスク」および「岩のドーム」のある境内で、パレスチナ人とイスラエル治安部隊が衝突しました。イスラム教徒にとっては断食期間の最後の週で、宗教的にも高揚する時期にあたり、またイスラエルにとっては、5月10日が1967年の第3次中東戦争で東エルサレムを占領した祝日にあたります。イスラエルは数千人規模の治安部隊を展開し、エルサレム旧市街へのパレスチナ人の入域を大幅に制限しただけでなく、5月7日以来、礼拝に参加している市民に催涙弾やゴム弾、閃光弾などを発射し、パレスチナ人1,200人以上に負傷者が出ています。

また、東エルサレムのシェイク・ジャラ地区のパレスチナ人家族(子ども46人を含む169人)に対して、イスラエル人入植者が実力行使で立ち退かせようとし、パレスチナ人と衝突したことも緊張を高める要因となっていま す。シェイク・ジャラは、1948年の第1次中東戦争でエルサレムを東西に引き裂いた停戦ラインに近く、立ち退きを求められている人々は、1948年に家を失い他の地域から逃げてきた家族などで、故郷に戻ることが許されないなかで、避難場所としてこの地区に70年以上住み続けてきたのです。なお、5月11日に日本政府が出した談話に「我が国が国際法違反として幾度となく撤回を求めてきたイスラエル政府による入植活動」とあるように、今回のイスラエル人入植者による行為は国際法に違反しています。

こうした状況の中、ガザ地区を実効支配している「ハマス」は9日夜以降、1,800発以上のロケット弾を発射、イスラエルに着弾し死傷者が確認されました。その報復として、イスラエル軍がガザ地区への空爆を続けています。

13日には、イスラエル国内でユダヤ人極右勢力によるアラブ系市民へのリンチ事件が起こりました。またアラブ系市民の家の扉に目印をつけ襲撃を予定していると報道されるなど、イスラエルの人口の約2割を占めるアラブ系市民への差別と分断がさらに増長することが懸念されます。また、その報復としてイスラエル人の店やホテルがアラブ人によって襲撃される事件も起き、双方の間で憎しみと暴力の連鎖が続いています。

イスラエルはガザを15年近く完全に軍事封鎖してきました。そのため、ほとんどの住民はガザから出ることができず、多くの物資もガザに搬入できません。電気や水といったインフラも整備されず、失業率が60%近くになる中、2008年、2012年、2014 年とイスラエル軍の大規模な軍事攻撃が6年間に3度あり、多数の犠牲と破壊が残されたのは記憶に新しいところです。

1948年以来、国際社会はパレスチナ問題と難民問題を解決することができず、現在500万人以上のパレスチナ人がいまなお難民としての生活を余儀なくされていることも忘れてはなりません。5月15日は、パレスチナ人にとって難民となって73回目の「大惨事の日(ナクバ)」にあたります。ガザだけでなく、ヨルダン川西岸やレバノン、ヨルダンなどで難民生活するパレスチナの人々にとっても、現在の状況は二重三重の苦しみとなっています。

このような事態を受け、私たちは、過去の惨事が繰り返されないよう、双方が攻撃を自制するよう求めます。影響力のある米国が、特に圧倒的な軍事力をもつイスラエルに爆撃を即時停止するよう働きかけることが期待されるなか、国際社会の一員である日本政府として、それを強く後押しすることや、その他、即時停戦のために必要なあらゆる手を尽くすこと、具体的な行動をとることを求めます。

(呼びかけ団体:五十音順)
特定非営利活動法人 日本国際ボランティアセンター(JVC)
特定非営利活動法人 パルシック
特定非営利活動法人 パレスチナ子どものキャンペーン(CCP)
特定非営利活動法人 ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)

(賛同団体:賛同順)
北海道パレスチナ医療奉仕団
特定非営利活動法人 パレスチナの子どもの里親運動
公益社団法人 日本YWCA
特定非営利活動法人APLA(Alternative People's Linkage in Asia)
(株)オルター・トレード・ジャパン(ATJ)
特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

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今回の衝突のきっかけは、エルサレムのパレスチナ自治区の、旧市街への入り口であるダマスカス門前の広場を、ラマダン(断食月)とコロナに乗じて、イスラエル警察がセキュリティを理由にバリケードで封鎖したことです。


ダマスカス門は、東エルサレムに住むパレスチナ人たちが日常的に利用する門です。
城壁に囲まれた旧市街の中では、何世紀にもわたってアラブ人(パレスチナ人)やアルメニア人、少しのユダヤ人などが共存して住んできましたが、1967年にイスラエルがこの地を武力で占領してから、じわじわとユダヤ人居住区を増やしてきました。
旧市街には、狭い場所にキリスト教の聖地、イスラム教の聖地、ユダヤ教の聖地
、学校などだけでなく、普通の住居もあれば、たくさんの店も並んでいます


中央がダマスカス門で、手前がダマスカス門前の広場です。
手前と旧市街の左がパレスチナ自治区、写真の右手がイスラエルの占領地区となっています。
この写真はどのような状況で撮ったものかわかりませんが、


普段はこのように、歩きにくいほどごった返しています。


武力で占領されて以来、パレスチナ人(アラブ系だけでなくベドウィンも含む)の住む区域は、どんどん狭められてきました。1990年ごろからは、パレスチナ人は乗り合いタクシーで街から街に移動するにも、たくさんのイスラエルの検問を通ったり、砂漠の中を大回りしたりしなくては、たどり着くことができなくなりました。
ヨルダン川西岸の1964-69年までの地図のくびれたところがエルサレムですが、現在では、ほぼイスラエルに実効支配されてしまっています。
1980年代まではそれでも、イスラエルはパレスチナ人を安い労働力として、共存していました。しかし、ソ連崩壊で東欧のユダヤ人が大量に流れ込んできたり、東南アジアからの出稼ぎが盛んになると、パレスチナ人は不要になり、ただただパレスチナ人の住む土地を求めて、武力で追い出しにかかりました。
西欧は、ユダヤ人をパレスチナの地に追いやった負い目があるので、何もできません。

何もできず、無力さを感じるだけですが、せめて関心を寄せていたいと思います。



2021年5月18日火曜日


昨年の暮れに、友人からオーストラリアの塩をもらいました。
私は、いつもは「沖縄の塩、シママース」を使っており、まだ残りがあったのでオーストラリアの塩はそのままにして、シママースを使い続けていましたが、封を開けたシママースが残り少なくなり、いよいよオーストラリアの塩を試してみるときが来ました。
ろくろく説明を読んでいなかったのですが、包み紙の裏面には日本語が書いてあり、
「オーストラリアの塩田で太陽と風だけで約2年間かけてじっくり乾燥させた原塩を、独自の方法で仕上げた「天日海塩」です。他の塩と違い、原塩をいったん水で溶解したり、海水を釜で煮詰めたり、加熱したりしていません」
と、書いてありました。独自の方法とは、原塩を粉砕して乾燥させたもののようです。
てっきりオーストラリアでつくった塩だと思っていたのですが、原材料がオーストラリアというだけ、日本、しかも沖縄でつくった塩でした。


包み紙を開けてみると、わりと粒子の小さい塩が現れました。


ついでに、買い置きしているシママースを取り出して、眺めてびっくり。これまで、ろくろく袋も見ず、説明も読まずに使ってきましたが、袋にははっきりと、「メキシコまたはオーストラリアの天日塩と沖縄の海水でつくりました」と書いてあります。
裏の説明には、
「メキシコまたはオーストラリアの天日塩を沖縄の海水で溶かし、平釜でじっくりと煮詰め、時間をかけてつくりました」
と、書いてありました。
天日海塩は、原塩を水も海水も熱も使わずに加工し、シママースは沖縄の海水で平釜で煮詰めたという製法の違いこそあれ、どちらもオーストラリアの塩だったのです。

しかし、何故オーストラリアの塩なのか?
ネットで「「伯方の塩」の想い」を見て、やっとわかりました。
1971年に「塩業近代化臨時措置法」が成立して、日本では「イオン交換膜製塩」以外の方法で海水から直接「塩」を採ることができなくなりました。このような制約のもと、専売公社から許された製塩法は、当時専売公社がメキシコ、オーストラリアから輸入していた原塩(天日塩田塩)を利用する方法でした。
1997年に「塩専売法」が廃止され、海水からの直接製塩が認められ、2002年からは塩の自由化により、原料塩の産地を、自由に選択できるようになったのですが、「伯方の塩」では、現在もメキシコ、オーストラリアの天日塩田塩にこだわり、それを日本の海水に溶かしてろ過した後の塩水を原料として製造しているそうです。


なぜなら、メキシコとオーストラリアの塩は、どちらもとてもきれいな海水で、供給も安定しているからだそうです。


その昔、伯方も塩や「天塩」を使ったこともありましたが、シママースを使う前の10年くらいは、友人からもらったのをきっかけに、ずっと、赤穂浪園の「やき塩」を取り寄せて使っていました。30年も前のことなのでうろ覚えですが、味もさることながらべとつかないでさらさらしていることがありがたかったからだったような気がします。
八郷に来てから、無添加のシママースが生協で買えること、浪園のやき塩は、2000年頃はネット環境がまったくなくて、FAXや電話で注文して購入しなくてはならなかったので面倒になったことなどから、シママースに替えてしまいました。
シママースは、べとつかないのも嬉しいことでした。

ついでに、ネットで赤穂浪園のやき塩の原塩はどこのものか調べてみると、
「創業300年、ずっと同じ製法でつくられるやき塩。天然のにがりを含んだ国産の生塩を原料に、特殊な炉で丹念に焼いてつくります」
と書いてあります。それって、矛盾がありません?
1971年から1997年まで、日本では海水からはイオン交換膜製の塩しか許されなかったはずです。その間も日本の海水から塩をつくっていたとすれば、イオン交換でつくる以外なかった、300年前にはイオン交換ではなく、広がる塩田で塩をつくっていたことは確かです。

さて、私の使ってきた塩たちが、(やき塩を除いて)オーストラリア・メキシコで天日干しされた塩であることには納得しました。日本では塩の天日干しができる場所も気候もない、海水から煮詰めれば、多大なエネルギーを必要とする。となれば、手持ちの天日海塩とシママースがなくなったときもありがたく、オーストラリア・メキシコの天日塩田塩をいただき続けることにします。
天日海塩とシママースを食べ比べてみると、どちらも美味しい。ただ粒子が細かい分、天日海塩は、口の中ですぐ溶けます。コーヒー(やワイン、ビールにも)に入れると味が引き立つと書いてあったので少量入れてみて、なるほどと思いました。
しかし、粒子が粗めのシママースもゆっくり溶ける良さがあります。もしかしたら、天日海塩とシママースの両方を小出しにしておいて、使い分けるといいのかもしれませんが、それほどデリケートな暮らしはしていません。
何気なく使っている塩の背景がわかって、天日海塩をくれた友人に感謝です。
ちなみに、カンボジアに住んでいたときは土地の岩塩を使っていましたが、私にはヨードを含んでない岩塩を日常的に使うという選択肢はありません。やっぱり海の塩です。