2021年7月25日日曜日

伊藤松三郎さんのこけし


昨夜、つれづれなるままにNHKのオンディマンドで、昔の映像を4Kでよみがえらせ、それに現在の映像を少し足した、「よみがえる新日本紀行『こけしの詩~宮城県鳴子町~』」を見ました。
もとの映像は、昭和46年(1971年)放送されたもの、思いがけず、冒頭からこけし工人の伊藤松三郎さんが映し出されていました。


大学1年生の夏休み、私は東北を旅したいと友人たちにもらしていました。
すると、誰かかれかが、
「あらっ、さっちゃんが東北に行きたいと言っていたよ」
「やすこさんも行きたいと言っていたよ」
と、教えてくれ、ほぼ口をきいたこともなかった同級生のさっちゃんとやすこさんと、一緒に旅することが決まりました。
当時、国鉄周遊券というものがありました。鈍行列車に限られましたが、2週間以内で、決められた区域内であれば、どこをどう乗っても、何度乗っても、料金が同じでした。私たち3人は日程を決め、コースを決めるために何度か集まりました。
私とやすこさんの行きたい場所はほんの少しで、しかも漠然としたものでした。ところが、さっちゃんには訪ねたいところがいっぱいありました。
それまで、私は郷土玩具というものの存在すら知りませんでしたが、さっちゃんは何かの会(武井武夫の会だったか?)に入っていて、あちこちの郷土玩具制作者を訪ねてみたいというのです。
結局、やすこさんと私の行きたいと思っていた、南部鉄とかホームスパンをつくっているところも計画に入れ、先生に紹介状も書いていただいたりはしましたが、全体的にはさっちゃんの行きたいところをめぐることになりました。
私たちはユースホステルの会員になって、安い宿を予約し、ユースホステルのないところでは木賃宿に泊りました。


わりと手はじめだった鳴子で、さっちゃんは町のあちこちに行きたいこけし工房があり、行く先々で、小さめのこけしをちまちまと買っていました。

こけし工人で、鳴子で一人者と言われていた伊藤松三郎さん(明治27ー昭和51年、1894ー1976年)は、温泉町ではなく、山の中に住んでいらっしゃいました。旅程も決まっていたので、松三郎さん訪問は割愛することになりましたが、せめて松三郎さんのこけしを見てみたいと訪ねたお店で、私はそのこけしに一目ぼれしてしまいました。
それまでは、伝統こけしに関心がなく、さっちゃんを覚めた目で見ていたのに、突然大きなこけしを買ってしまった私、今考えると、予算が限られていたさっちゃんはさぞ羨ましかったにちがいありません。
よく覚えていませんが、松三郎さんのこけしは1000円くらいだったかもしれません。当時は、アルバイトをすると日給で700円ほどもらえた時代、小さな土人形やコケシは、50ー200円ほどでした。

娘さんが轆轤を回している。このあと東京に出た娘さん死亡

15歳で木地職人となった伊藤松三郎さんの一生は波乱万丈です。食べるために、北海道に漁業の仕事で行っては、何度も失敗に終わっています。その一生は、書き写すのさえ面倒なほど長い物語なので、Kokeshi Wikiを参照していただく以外ありません。


1971年当時、鳴子には(鳴子以外にも)蒸気機関車しか走っていませんでした。
「よみがえる新日本紀行」によると、松三郎さんは、2人の娘さんを生後1か月と、尋常小学校卒業の日に亡くされています。また、Kokeshi Wikiによると、上の写真の轆轤を手伝っていた娘さんがこのあと、東京へ出て間もなく死亡。では娘さんが3人いたのかどうかはっきりしませんが、松三郎さんが辛い人生を送っていらっしゃったことは確かです。


「よみがえる新日本紀行」には、こけしをおんぶしている子どもたちが出てきます。


こけしは本来子どものものですが、昭和40年代にはこけしの一大ブームがあったらしい、こけし愛好は子どもから、大人へと移ってはいきましたが、松三郎さんも、晩年は注文もたくさんあり、安穏に過ごせたことでしょう。


さて、我が家の松三郎こけしは、墨以外の色は褪せてしまっています。


それでも首を回すと、コリコリと、よい音がします。

まったくの余談ですが、さっちゃんには当時、スイス人のボーイフレンドがいました。招待状など、よほどのことがなければ海外に行くことのできなかった時代、さっちゃんがスイス人のボーイフレンドとつき合っているのは、海外に行く足掛かりを探しているからだと噂する人もいました。さっちゃんは、留年して1年上の学年から落ちて来た人でしたが、あまり学校には来ませんでした。
次の春休みに、また3人で一緒に、今度は関西から山陽へと旅しました。
しかし、2年生の新学期がはじまるとさっちゃんはいよいよ学校に来なくなり、その後、退学して念願通りフランスに行ったと、風の噂に聞きました。
それっきり、さっちゃんに会ったことはなく、消息も途切れたままです。
やすこさんは漆器作家として、今も活躍されています。






2021年7月24日土曜日

バンドリ

たった一つですが、ずいぶん前からバンドリを持っています。
1980年代に、益子の古道具屋さんで買ったものだったと思います。
昨日、バンドリの話が出たので、以前きっとUPしたはずのバンドリの記事を出そうと、「八郷の日々 バンドリ」で検索したのですが出てきません。
これまでも、古い記事が見つからないこともあったので、しかたなく、ブログアーカイブの民具という項目の、過去の記事697個をくまなく見返したのですが、ない。
そこで、これまで、バンドリをUPしたことはなかったことに気づきました。


というわけで、私の持っている、バンドリです。
バンドリとは、ものを背負うとき、背中が痛くないように緩衝材として当てたものです。腰のあたりにあたる部分を分厚くしてあるので、重いものを運ぶときも、背中が痛みません。


こちらが外側、柴や草など、ものを乗せる面です。


このバンドリは、力のかかるところ、身体に当たるところなどに木綿布を編み込んで、補強すると同時に当たりを柔らかくしています。
この形がわりと一般的であったことからも、肩ひもの長さを調節したりバンドリを身体に縛りつけたりする紐が、きれいに畳まれたままになっていることからも、このバンドリは荒物屋などで売られていた商品の、デッドストックではないかと思いました。

その昔、学生時代に東北を旅したとき、岩手県雫石の中心街で荒物屋さんをのぞいたことがありました。私はその店で木の杓子を買ったのですが、雪靴、頭巾、馬の鞍などなど、稲わら製品が所狭しと置いてありました。馬の鞍は生まれて初めて見るものでしたが、それが稲わらでできているなんて!興味津々でした。
おそらく、バンドリもあったのではないかと思われます。


バンドリは庄内地方のものが、豪華です。


とくに婚礼の荷物を運ぶ「祝いバンドリ」には肩当をつけたりして、荷を背負ってないときも美しく見えるよう、工夫が凝らされています。


そんな祝いバンドリも素敵だと思いますが、


普通のバンドリからも暮らしが感じられて、私は好きです。


各家庭でつくられたバンドリは、こんなシンプルなものだったのかもしれません。

島根の背負子

木の背負子(きおいこ、かりこなどとも言う)とセットで用いられた地域もありました。この場合の背あては、セナコウチとかセナカチと呼ばれました。

富山県船橋村では、明治2年(1869年)、夏でも温度が上がらず、凶作でした。
にもかかわらず、村役人は農民たちが食べる米まで年貢として取っていったので、農民たちは餓死寸前になり、宮崎忠次郎という人をリーダーに、年貢を減らして欲しいという要望書を村役人に出しました。
返事がもらえるという日、農民たちは菅笠、バンドリ、草鞋で身を固め、竹やりを持って寺に集まりました。しかし返事はなく、寺を出た農民たちは5万人にまで増え、滑川で村役人たちと出会い、戦いになってしまいました。
この騒ぎは鎮められましたが、忠次郎は死刑になりました。
これは、船橋村の「バンドリ騒動」と呼ばれています。



 

2021年7月23日金曜日

オリンピック

ブログは1日1本を原則としていますが、息子が彼の有料ブログで面白いことを書いていたので、しかも今日の話なので、転載してみました。
以下、息子の文です。

☆☆☆☆☆

これは、嫌みではなく、本心だ。そもそも、オリンピックは「祭り」だが、祭りには、「膿を出す」という機能がある。

文化人類学に、「ハレとケ」という概念がある。「ハレ」とは「晴れの場」のハレで、結婚式や祭りなどのこと。「ケ」とは「日常」のこと。今ウィキペディアを見たら、柳田国男が編み出した言葉だと知った。さすが柳田国男だ。

今回は、このハレとケについて、ぼくの考えを書いてみたい。

人間には、日常生活というものがある。農民だったら、毎日畑や田んぼに行って、こつこつと仕事をするという日常。それが「ケ」だ。

こういう日常は、とてもだいじではある一方、いろいろと問題もある。その問題とは、一言で言うなら「淀む」だ。あるいは、「固着してしまう」ということである。

たとえるなら、カレーを煮るとき、ときどきかき混ぜないと、固まってしまって食べられなくなることだ。日常も、延々と続くと、固まって、いろいろなものが動かなくなる。農民なら、病気になったり、農作物が育たなくなったりする。

その「固着する」ということを防ぐために、古来より、自然発生的に「祭り」が生まれた。祭りでは、固まりかけた日常を解きほぐすために、あえて無茶をする。ぐちゃぐちゃにかき回す。

例えば、だんじり祭りみたいに、暴力的にぶつかり合って、かき回す。もしくは、相撲なども、昔は神事(祭りの余興)で、参加してかき回し、見てかき回す。ぶつかるというのは、かき回すときの一つのポイントだ。

さらに、体だけではなく、心もかき回す。「牛」というだいじな財産を神に捧げ、「ああ、だいじなものを捧げて損した!」という気持ちを味わう。牛は、たいていどこの部族でもだいじなものだったので、よく神前に捧げられた。だから「犠牲」という字は「牛偏」なのである。

そういうふうに、祭りという「ハレ」の場は、元々は「そこに参加して楽しい!」というイベントやフェスではなかった。それよりも、「日常で積もりに積もった鬱々とした感情を爆発させ、気づかなかった本心を取り戻す」という役割だったのである。「垢を落とし、根っこのところに戻る」というのが、ハレという場の役割なのだ。

そして、根っこのところに戻るには、垢と同時に、固着した膿を出す必要がある。日常生活で凝り固まった悪いものを振り払う必要がある。

そう考えると、東京オリンピックほど、さまざまな膿をあぶり出してくれたイベントが、かつてあっただろうか? それは、プロ野球やJリーグなどのプロスポーツや、ロックフェスなどの音楽イベントでもなかった。もともとは「ハレ」の場だった相撲も、もはや違うイベントになってしまったので、我々の日常生活で溜まった膿は出してくれない。

唯一、オリンピックだけが出してくれた。だから、これを中止にしてはいけなかった。中止にしなかったからこそ、ハレの場として機能し、膿が出せた。
そう考えると、「オリンピックを中止しろ」などと言うのは、やはり言語道断である。それは、我々の膿を出すことをやめさせ、悪い状態で固着しろ、ということだからだ。

というより、「オリンピックを中止しろ」という人そのものが膿だった。それが分かったので、その意味でもオリンピックにはすごい効果があった。

しかしながら、この記事が配信される日がオリンピック開会式なのだが、ここにきて小山田圭吾氏と小林賢太郎氏という、二人の巨大な膿が連続してあぶり出され、とにかく大変なことになってきた。これで開会式は振り出しに戻り、たった1日でほとんどゼロから作り出さなければならなくなった。

ぼくは、テレビを持っていないので開会式を見られるかどうか分からないが、この開会式は逆に「みもの」になった。みんな、見るべきだ。そこで、膿を出した人々が、どのような根っこを取り戻すのか、その姿が確認できるかもしれない。

あるいは、「ハレ」の本番はこれからでもある。本番では、もっとすごい膿が出てくるかも知れず、ぼくは、それが楽しみでもある。

これは、本当に祭りのすごい機能であり、「ハレ」そのものだ。そういう超弩級のハレへと昇華した東京オリンピックは、紛うことなき「成功」である。そうとしか言いようがない。

☆☆☆☆☆







テゴ


「これはやなぎだろうか?
という質問を、この籠がやって来たところの新潟県の骨董屋さんに投げかけたところ、
「この、新潟県の海岸地方で使われていた「テゴ」は、やなぎ製ではなかった。カズラです。ハマカズラを使っているものらしい」
との、お返事をいただきました。
「テゴ」とは、九州などで広く使われている籠を指す言葉ですが、新潟、石川など日本海側の地域で「テゴ」と呼ばれる籠は、筌(うけ)などは含まず、この形、すなわち背負い籠にもなる手提げ籠のことを指すと知りました。

このテゴをつくり、そして使っていた地域の方々が、籠の材料をカズラ、あるいはハマカズラと呼んでいることには間違いないのですが、ハマカズラという名前の植物はありません。
日本に自生するハマ○○カズラとしては、


ハマネナシカズラ(浜根無し葛 
Cuscuta. chinensis)と、


ハマサオトメカズラ(浜早乙女葛 Paederia scandens(Lour.)Merr. var.maritima(Koids.)H.Hara)がありました。
ハマネナシカズラは、近年各地の浜で増殖して問題になっているアメリカネナシカズラによく似ていますが、れっきとした在来種で、本州中部地方以西に自生していましたが、今は絶滅危惧種となっています。
また、ハマサオトメカズラはヘクソカズラの仲間で、こちらは本州から沖縄にかけて、今でも自生しています。


ここで、籠材料のカズラとして一般的なアオツヅラフジを検索してみました。
浜に生えているかどうかは知りませんが、どこにでも生えていて、良質のカズラが採れます。


我が家にも、勝山の川元重男さんのカズラで縁を留めた籠があります。


しかし、ツヅラフジだけで籠を編んだ場合、なんとなくいびつな、手作り感いっぱいの籠しかできないと、勝手に思っていました。


ツヅラフジは、その昔、衣装を入れる葛籠(つづら)を編んだのでツヅラフジという名前がついたそうです。
オオツヅラフジとアオツヅラフジがあり、オオツヅラフジの蔓は太く、アオツヅラフジはそれより細い蔓が採れるようでした。


そして、とうとう見つけました。
秋田で編まれたというアオツヅラフジのテゴ(テゴとは書いてなかったけれど)の写真です。かすかに見える縁の感じも、私の手元にあるテゴとよく似ています。


これも秋田のテゴ、同じ素材で間違いありません。
「やったぁ!」
超すっきりしました。
それにしても、あのありふれたアオツヅラフジからも、熟練の職人さんが編めばこんな美しいテゴができる、驚きでした。
もちろん、ふごもアオツヅラフジでしょう。

さて、余談ですが新潟つながりで、一冊の興味深い絵本、『たくさんのふしぎ』があります。


『山里でくらす・中ノ俣の一年』(佐藤秀明文、写真、福音館書店、2021年5月号)です。
一番近い高田市まで、山また山を越えていく山の中の村、中ノ俣の生活を15年ほど追った写真集で、人口100人ほどの中ノ俣では、昔ながらの暮らし方がつい最近まで色濃く残っていました。
冬は深い雪に覆われますが、先祖の開いた小さな棚田を耕し、山菜やきのこで保存食をつくり、みんなで助け合って、お祭りは盛大に行い、楽しく暮らしています。


そこでつくられている稲わら細工の中に、ふごがあげられていましたが、テゴはありませんでした。
もちろん、テゴの写真がないからといって、中ノ俣でテゴがつくられたり、使われたりしてていないということにはならないのですが、どうなのでしょう?
テゴがどんな地域、あるいはどんな地形の場所で使われていたか、ちょっと気になっているところです。


このテルミさんの写真は、背負っているのはテゴではなかろうかと眺めたのですが、バンドリの可能性の方が大きいような気がします。


バンドリとは、重い荷物を背負ったとき、背中が痛くないように荷物と背中の間に背負う緩衝材のこと、たいていは稲わらでつくります。


上は、中ノ俣ではなく新潟県石原の、テゴを背負った女性の写真です。
石原は三面川流域にあり、村上から少し上流に行ったところ、この籠をテゴと呼んでいます。
海辺の村で使われたカズラのテゴは、丈夫だからカズラでつくられたというより、稲わらが手に入りにくかったからかもしれません。

テゴとは素敵な籠、稲わらでつくられるのが最も一般的だけど、ガマ、スゲ、そしてアオツヅラフジでもつくられていた、興味津々です。








2021年7月22日木曜日

相良人形の猫

昨日は、転落してから約2週間、退院してから1週間目の日、病院に行ってきました。
レントゲンを撮って診断してもらいましたが、胸に水も血も溜まらず、折れた肋骨たちもずれたりしていないとのこと、胸の圧迫感も日に日になくなっていて、一安心でした。


さて、自分へのお見舞い(ただの口実)に買ったものです。


なんかこれ、有名になったんですね。いつもガチャガチャを買うショップでは売り切れていました。


キタンクラブの相良人形の「猫に蛸」のフィギュアです。


5個セットですが、パンダ好きの人も買ってくれることを期待したのか、1匹は猫ではなくてパンダでした。


相良人形8代目の相良隆馬さんはいろいろつくっていて、こんなハチワレの猫もいます。
パンダより、ハチワレの方がよかったのに。


「鯛乗り猫に蛸」は、「蛸=多幸+脚八本=末広がり」+「めで鯛」のおめでた尽くし。


土人形としては小ぶりの相良人形(中)、さらに小さい浅草助六の猫と蛸(左)、それより小さいフィギュア(右)の猫に蛸でした。

制作中の相良人形。左が「猫と蛸」、真ん中が招き猫、右に「鯛乗り猫と蛸」が見えます

相良人形と助六の人形はもちろん手描きですが、Made in CHINAのフィギュアはどうやって彩色しているのでしょう?
思えば、別の意味ですごい技術です。


右は相良人形7代目、相良隆さんの招き猫、左は8代目、隆馬さんの猫に蛸です。

7代目の「猫に鯛」も持っていましたが、残念なことに2011年3月の地震で失われました。




 

2021年7月21日水曜日

プリン


弟から、お見舞いのプリンが届きました。
申し訳ない。


ビーカープリンだって。ガラスの器に入っています。


でかい!


一つ食べるのは無理無理と思えたのに、いただいてしまいました。
これは杏仁豆腐プリン、美味でした。
ごちそうさまでした。


 

2021年7月20日火曜日

脚がなおっている!

肩から背中にかけて、全体がひどい肩こりのような状態は改善されましたが、肩の数か所に局所的に痛いスポットがあり、服の脱ぎ着は入院中より困難になっています。
まっ、しかたない、明日は初めて再診とレントゲンを撮ってもらいに、病院に行ってきます。

さて、昨年の8月、右脚の膝のあたりが痛くなりました。右脚ほどではないけれど、左脚も痛みました。
なかなかよくならず、スムーズに歩けないときもありました。


そのとき買ったのが、SIXPADのFoot Fitという健康器具でした。
無駄なものは買っても、実用的なものはあま買わない私ですが、足が痛いまま放置するわけにはいかない、Foot Fitは足を乗せておくだけで筋肉が鍛えられるというので、わりと値が張りましたが、すがる思いで買いました。


使い方は、スイッチを入れて、1日1回、1コース23分ほど、椅子に腰かけて素足を乗せておくだけです。
強弱の目盛りは1から20までありますが、ほぼ最初から一番強い20でやっています。これは通電する機械で、ふくらはぎなどに刺激があって、足は軽く弾むように持ち上げられます。
デスクの下に置いて置いて、毎日欠かさないでやっていましたが、効果のほどは、正直わかりませんでした。というのも、脚はしゃきしゃきとはよくならなかったからです。
膝がどうかしたのかと、昨秋には病院でレントゲンも取ってもらいましたが、膝の軟骨はそう減っていないとのことでした。うまく歩けないときは、Kさんに温熱治療もやってもらいました。それでも脚が痛いのは、つい最近まで続いていました。

ところが、屋根から落ちて入院してみて、脚が完全になおっているのを発見しました。仰向けにしか寝られない中、脚が自由に動かせるのは嬉しいことでした。
前にも入院したとき、頑固な脚の湿疹が収まったことがありました。悪いことにも、何かしら良いことがついてくるようです。
脚がよくなったのは、SIXPADのおかげだったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。それでも続けています。