2020年8月9日日曜日

高麗川沿いの家

昨日は、友人のガラスの器の展示会を見に埼玉県秩父まで行ってきました。
行きは、関越高速道路を降りてから、秩父への大動脈である国道140号線を行ったのですが、帰りは国道299号線で正丸峠を越えて、飯能に出る道を選びました。というのも、夫の両親は晩年、高麗川沿いの吾野に家を建てて、週末を過ごしていましたが、その家がまだ残っているので、一目見ようと思ったのでした。
高麗川の両側には山が迫り、狭い傾斜地にところどころ集落がある風景。この地にとって299号線はたった一本の幹線道路、そして、その道路を右に見たり東に見たりしながら、西武線が通っています。

高麗川の河原の石を積んだ、元両親が住んでいた家の石垣

夫の両親が住んだ家も見ましたが、今は他の人が住んでいるゆえ、そうじろじろは見られません。しかも周りには木々が生い茂っていて、ちらっと垣間見ることができただけでした。


さて、高麗川の流域には、かつては、昔ながらの美しいたたずまいの木の家が何軒もありましたが、もしかしたらもうないのか、あるいは見落としたのか、このお宅だけが目に留まりました。


母屋は奥まっていて、ちょっと見にはさして特徴のないつくりでしたが、納屋は出し桁(だしげた)構造になっていて、一階より二階の床面積が大きくなっている家でした。せがい造りと言います。


家の人にたずねはしなかったのですが、二階では養蚕をしていたのでしょう。そこからそう遠くはない秩父は、養蚕の一大中心地でした。
四方の壁の一方だけは出し桁ではなく、下屋が設けてあります。


また、屋根は二重についています。
なぜ、このような形に屋根を葺いたのでしょうか?


空気抜きなら、全体を二重にしなくても、左の平屋のような空気抜きの建屋が、二重屋根の納屋の上にも乗っているので、それが機能すると思われますが、蚕は暑さも嫌いましたから、部屋の体積を大きくすれば、それだけ涼しく、新鮮な空気も取り入れやすかったのかもしれません。

と、ここまで書いて、推測ばかりではと『民家は生きてきた』(伊藤ていじ著、美術出版社、1963年)を引っ張り出して読んでみました。


『民家は生きてきた』は、『日本の民家』全10巻(二川幸夫写真、伊藤ていじ文、美術出版社、1962年)の本文だけをまとめたものです。学生時代に、私の友人たちの間では高く評価されていた本で、私もなぜか買って、一生懸命読んだものでした。
出版当時はまだ足で訪ねれば、写真の民家の実際を見ることができましたが、ほとんどが消えてしまった今となっては、肝心の『日本の民家』を持ってなくて、『民家は生きてきた』の文だけでは想像がつかない部分もあります。
でも、「両毛・武蔵野路」のところを読んでみると、このあたりになぜ養蚕が広まったか(簡潔に言えば、田んぼに桑を植えることは禁止されていて、この辺りには田んぼがなかったから)、養蚕が村落社会をどう変化させたか(個人の力で現金収入を得られるようになり、名主の権限とか結などが廃れた)、そして養蚕飼育方法(清涼育、温暖育、条桑育〈棚飼い〉などいろいろ試みられた)の違いが民家の形を決めたということなどが記されていて、推測はあながち外れてはいないということがわかりました。


この積んである梯子は何にしていたのかも、気になりました。







10 件のコメント:

かねぽん さんのコメント...

こんにちは。
民家の石垣はお城のそれとはちがった美しさがありますね。
最後の写真の梯子みたいな物は、僕には「そり」に見えます。

昭ちゃん さんのコメント...

 埼玉は同窓会終了後池袋から東部東上線で化石採取でした
かって海だったのでフズリナの宝庫です。
梅の季節になると車内まで梅の香りが、
 「ソリ」こちらでは「スラ」に見えますが。

昭ちゃん さんのコメント...

 私が土蔵に関心を持っているヶ所は二つ、
あの重い扉のレールと戸車・天井です。
一ヶ所土蔵がありますが不在なので確かめられません。
扉は防火設備で厚みがありますが屋根や天井の様子が見たいです。
 戦時中焼け跡には東京でも古い土蔵がポツンポツンと
残っていました。
さすが猛火の中でも外側はそのままですが屋根から火が入るので中は全部有りません外側より天井が大事です。
落語「みそ蔵」の落ちを思い出しました。大笑い

昭ちゃん さんのコメント...

 東部ではなく東武東上線の間違いです。

さんのコメント...

かねぽんさん
以前、多摩川の支流の浅川近くに住んでいましたが、このあたりのような渓谷ではないので、河原から拾ってきた民家の石垣はもっと丸い石でした。本当に風情のあるものです。
橇ですか?橇だったら、このあたりは昔は林業を生業としていたので、山から木を切り出すとき使った可能性がありますね。
高麗川は今は(昔も?)水量の少ない川ですが、切り出した木を運ぶときは川を間伐材などでせき止めて、ダムをつくり、そこに木を浮かべて堰を切り、一気に流したようで、写真を見たことがあります。山が急峻で、空が狭く、息が詰まりそうな土地ですが、切った木を下ろすには最適だったのかもしれません。今は林業が廃れ、山には広葉樹が多くなっていました。見るだけの私はその方が好きですが(笑)。

さんのコメント...

昭ちゃん
こちらは、やはり池袋起点の私鉄ですが、秩父が終点の西武池袋線です。
山間だからか、土蔵は見ませんよ。もっと軽やかな木の建物が多いです。
飯能近くで言えば、今でも西川材が良質の杉材として盛んに切られています。西川林業地に行ったことはないのですが、もしかしたら土地として高麗川流域あたりより、便利がいいのかもしれません。高麗川流域は狭く、広い集積場をつくることもできなさそうだし、何せ片側一車線の幹線道路以外は道もないので、材木の質より、運び出しの面倒さで、林業が成り立たないのかもしれません。

昭ちゃん さんのコメント...

手入れも運び出す手段もいろいろあり二・三本なら牛が引きだす時代を
見てきました。今は殆どロープで車まで。

rei さんのコメント...

rei飯能の製材所を見学させて頂いた事が有ります。西川材も扱っていますが、それだけでは様々な需要に答えられず、他の国産材もストックされていました。
その製材所に出入りする大工数名が、20名弱の我々見学者(主にプロの建築士)の為に、在来工法による小屋を組むデモンストレーションをしてくれました。

交流の席で、今時の大工は在来工法を刻みから学びたくてもその機会が殆ど無く、プレカットされたものを組み立てることしかできないと嘆いていました。効率優先が伝統技術を失わせて行く現実。

さんのコメント...

昭ちゃん
昔の人の働きと工夫には頭が下がりますね。炭焼きだって、細い材とは言え運び出しは大変でした。
この辺りは、山におかしいほど林道が張り巡らされているので、どこからでも材木は車で運び出せますが、だからと言って林業は全然盛んじゃないです(笑)。

さんのコメント...

reiさん
飯能にいらしたことがあるんですね。
友人で「き」組というのをやっている人がいて、彼から西川材のことは聞きました。彼は、山と職人と住まい手をつなぐことをコンセプトにして、東京近郊で家を建てる場合は西川材を使っています。
我が家は茨城の八溝杉を使っていますが、近くの材木屋さんが庭先で1年も乾燥してくれました。材木屋さんから買うのもいいけれど、顔の見える関係はどうだろうと、数年前に八溝に行き、工場を見学しましたが、どの製材所も乾燥機をもっていて、人工乾燥材しかつくっていなくて、改めて近所の材木屋さんのありがたさを知りました。
というわけで、材木屋さんの顔はよく見えていますが(笑)、木を伐る人たちとはつながれませんでした。