このあたりでは、人家が集まって建っているところを「宿(しゅく)」と呼びます。古い地図を見ますと、私の住んでいる村では、現在、郵便局やコンビニの建っているあたりが、宿と呼ばれていました。
○○の上宿、下宿などと、今でも地名で残っているところもあります。
宿には、はっきりとした職業にしてないとしても、日が暮れたら、泊まれる場所があったのでしょうか?それとも、宿(やど)とは関係なく、村でもっとも賑やかなところを、宿(しゅく)と称したのでしょうか?
八郷は、三方を山に囲まれています。峠を越える前とか、病気の平癒を願って登った登山道のふもとには、いくつもの本格的な宿(やど)があったことと思われますが、私の知っている限り、今でもその面影を残しているのは、
Wさんのお宅と、このお宿など、数軒だけです。
県道に面していて、今でも当時の面影を残しているこの宿は、いつごろまで賑わっていたのでしょうか?
鏝絵には、「旅舎」の文字が見えますが、「楼」とは、単なる宿の意味だったのでしょうか?
あるいは、この家の屋号だったのでしょうか?
4 件のコメント:
建築物の中が見えないのでわかりませんが
一見さんを入店させない「揚げ屋」ではないでしょうか。「楼」は一般的に高く構えた建築。遠くを見る為に作った物見櫓、望楼。
遊女と遊興する事のできる店。「揚げ屋」建築の特徴は、内部に饗宴大座敷に面したお茶席と共にそれと同規模の台所が備えられており、吉原では1757年を最後に揚げ屋は消滅したそうです。明治以降は「お茶屋」業に編入。鏝絵のデザインは「大黒様と鯛」。
商売繁盛を願っての図柄で、当時の八郷宿場ではきっと華やかに客をもてなした料亭であったのでしょう。
はっとさん
楼の意味、教えていただいてありがとうございます。
そんな、遊女なんてしゃれた人たちが、ここ八郷にいたでしょうか?なんせ、今も昔も気が遠くなるほど鄙びたところです。こんどもう一軒の旅籠だった人にでも聞いてみます。もしいたとしたら、ちょっと認識を改めなくては生りません。
筑波山登山、足尾産登山は昔は行われていたのですが、どちらかといえば信仰と病気平癒祈願でした。
遊女といっても「揚げ屋」は「遊郭」とは業種が大きく異なり太夫などを置き屋から派遣してもらう所です。饗業の店というのがよいでしょうか。旅館業にも「楼」はつけられるので、内部に広庭や同等規模の台所がなければ通常の「宿舎」という建築物だったと思われます。
はっとさん
今度近くで聞き込み(笑)をしてみます。地元の昔を掘り起こした冊子(外者がまとめたけれど、古老たちへの聞き書きなど)でも、艶かしい話はそう聞いたことがありません。
なにせ、今でもこんなところが残っているなんて信じられないような田舎です。
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