はなちゃんのエプロンを縫うための糸をさがして、いつもは開けない裁縫箱を開いてみると、2000円札の入った封筒が出てきました。
我ながらバカバカしい限り、いつだったか2000円札探したときには、どう探しても見つからなかったもので、まさかの裁縫箱に入れていたのです。
2000円札は、2000年、ミレニアムの年に発行されたもの、私は日本にいなかったので、記念コインなどを買うのが好きだった父が取っておいてくれました。
守礼門が描かれているのは、その年に、沖縄サミットがあったからです。
発案者は、当時の首相の小渕恵三さんです。小渕首相は権威を笠に着ない、慣習にもとらわれない気さくでマメな方で、誰にでも自分で電話をかけてしまう「ぶっちフォン」が有名でした。
私が働いていたNGOでも、かかってきた電話を取った人が、緊張した声を出しているので不審に思っていると、
「Sさん、首相の小渕さんからです」
と言ったので、事務所内にどよめきが走ったことがありました。
そのときは、カンボジアの地雷の状況を訊かれたのです。
私の働いていたNGOは、長くカンボジアで活動していました。最初はタイ国境でカンボジア難民にかかわっていたのですが、カンボジア国内の安定がなければ難民問題は解決しないと、1980年代初頭からカンボジア国内に目と足を向けていました。
当時のカンボジアは内戦も続いていて、国際社会からも無視されていて何もかも不足、大地を耕そうにも、あちこちに地雷が撒かれて危険な状態で、人々は困窮にあえいでいました。
そんなカンボジアのプノンペンに、日本のNGOとしては最初で唯一の駐在事務所を置くことができたのは1987年、カンボジアと日本との国交はまだない時代でした。当時、日本は欧米に倣って、ヘン・サムリン政権をヴェトナムの傀儡であるとして国として認めず、西部に陣地でしかなかったポル・ポトなど三派連合を、正式なカンプチア国として認めていました。
アメリカがヴェトナム戦争に破れてから16年、ポル・ポトの圧政が崩壊してから11年経った1991年に、やっとパリで「カンボジア和平協定」が結ばれ、日本とカンボジアの国交も再開されました。その直後に日本は大使を送り、ホテル内に代表部を開設、すぐに小渕恵三議員を団長とする、最初の衆議院議員団をカンボジアに送っています。
そんなことがあり、小渕首相は首相になる前から地雷除去に熱心だったのです。
私がカンボジアに赴任した直後の2000年1月には、小渕首相は日本の総理大臣としては43年ぶりにカンボジアを再訪されました。
そのとき、カンボジアで活動しているおもな日本のNGOが、首相主催の小さな集まりに招かれました。出席した同僚のUさんから、首相のお土産の水沢うどんのおすそ分けを貰い、海外に行ったら日本食のことは忘れてしまう私も、美味しくいただきました。
あれ以来、水沢うどんは食べていないし、小渕さんもUさんも、亡くなられてしまいました。
2000円札を見ながら、そんなことを思い出しました。
8 件のコメント:
姐さん有難う。
ニュースや中継以外は一日中16回転のレコードでブギやジャズを私の原点です。
それに平行して3Sも
日本人は骨抜きになりました。大笑い
追伸
WVTRはのちにFENと代わりましたブルーカナリーはユーチュウブで聞けます。
小渕首相は気さくな方だったのですね。まさか職場にそんな方から電話かかってくるなんて予想もしないですよね(笑)。
これは不便でしたよ使用時にどちらも確かめて、
発行の主旨は解るけれど。
昭ちゃん
青春してましたね。
時代は違うと思うけれど、ジャズは衝撃的でした。
私の友人にも部屋いっぱいモダンジャズのレコードを集めて大きなスピーカーで聴いていたのがいました。昔は何するにも一手間かかりましたね(笑)。
hiyocoさん
そうそう、総理大臣なら秘書を使うのが、今も昔も当たり前ですね。人はなろうと思ってもマメになれるものではありません。それにしても、偉ぶらない気配りのできる人だったのだと思います。
当時は会議のときでも一人は電話番しなくてはならないほど電話が一般的でした。今の事務所はどうなんでしょうね?携帯が生まれた前後が、電話で通話のピークだったのでしょう。今では、一週間に一度も電話使いません。それも、歯医者の予約とかだけ(笑)。
いまでも[A列車で、、、]原点かな
大きなアンプは本箱になっています。
昭ちゃん
どこの家でも、そんなもんでしょう(笑)。
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