そしてときおり、京都の町で見つけた、素敵なものたちがいりませんかと、声をかけてくれます。
そんなtopcatさんから、「福狐」が届きました。
京都河原町にある、岬神社土佐稲荷の授与品の狐さんです。
シンプルな箱の中の、シンプルな包みの中から出てきたのは、
表面がざらざらにした、砂糖菓子のような磁器の、一対の狐さんでした。
topcatさんによると、この狐たちは稲荷社の中で見つかった古いもので、新しくつくった箱に入れて授与しているということですが、狐さんのことゆえ、真意のほどはわからないとのことでした。
そういえば、古風な感じがしないでもありません。
狐さんたちは、立派な尻尾を持っています。
そして、手のひらにすっぽり入るほどの小ささです。
故郷の信州にいたころから、topcatさんは仕事の傍ら、余暇で古い人形の修理などをしていました。
修行の道に入ることを決心した経緯を深くは知りませんが、将来は人形師としてやっていきたいということなのでしょう。
工房風景、topcatさんのFacebookより |
師匠から、「春絵」という雅号をいただいたそうです。
topcatさんはまだ三十歳にもなっていない狐男子。前途は洋々、人形づくりを未来につないでいく、素敵な人形師となることでしょう。
頑張れ!
8 件のコメント:
春姐さん年をとると思い出深い地名が出て
色々な出来事が、、、くどくどごめんなさい。
外務省から配転になったF軍需工場が戦争末期疎開になりました。
私の部署の女性は全員「飯田」で1945・6月
母は寮母に再就職弟とこれも上田に、、、
私は東京残留仕事でしたが気球隊に
そして艦載機の銃撃を受けながら無事生き延びました。
前もって飯田に送った荷物は終戦でそれどころか、、、、。
幻の飯田です。
昭ちゃん
そうでしたか。昭ちゃんにとっては飯田は、そして上田も忘れられない土地なのですね。
私にとって、伊那は元同僚が住んでいたので訪ねて行ったり、ダム建設反対運動をしていた方に会いに行ったり、薪ストーブをつくってくれた人のところに取りに行ったりと何かと関係深い土地でしたが、飯田は「その近く」という感じでした。
でも飯田は、今宮崎県の日之影に住む籠師小川鉄平さんの故郷だったり、topcatさんがついこの前まで住んでいたところだったりと親しみを感じる上、六月には、町ぐるみで自然エネルギーを積極的に作り出し活用している飯田を、見学に行くことになっています。
そして上田は、私がいつも飯田とこんがらがってしまうところです(笑)。
伊那はまた、井出孫六の姉の丸岡秀子の『ひとすじの道』で、まるで自分の故郷のように親しんだところです。誰でも、何のかかわりもないと思われる土地にも、何かしら思い入れというものがあるものですね。
姐さん有難う感謝です。
追伸
仲良しだった女の子が上諏訪で
田舎のない私は憧れました。
こんな句もありますね、
「春くれば諏訪の親戚遠くなり」
神渡りが出来る諏訪湖ですね。
上田の別所温泉に母は行ったとか、、、
戦争だから家族がばらばらの生活でした。
昭ちゃん
諏訪湖は印象的なところですね。我が家の窓サッシをつくってくれた会社が諏訪にあります。
でも、湖のほとりに家ができすぎると生活雑排水で水が汚れるとか、どこの湖も抱えている問題です。
昔は、中山道の方が東海道より女子供には歩きやすかったのだったかしら?あのあたりを、たくさんの人が歩いていたと思うと、不思議に懐かしい気持ちになりますね。
姐さん昔から無塩・ぶえん 物と言われ
海が遠い地方では魚のような生ものは貴重な存在ですね、
所用で上京した弟が上田からリンゴをいくつか、
驚きました。!!
リンゴは赤いイメージなのに青いリンゴでしたー
昭ちゃん
そうそう、どの地方にも、海から山の中へと続く「塩の道」がありましたね。古い宿場の人に訊くと、その昔は考えられないほどにぎわっていたようです。
リンゴもミカンも、昔は輸送が発達していなかったので、産地でない人には貴重なものでした。お見舞いとかには、手つきの楕円形の籠に、バナナとともに、リンゴも並んでいましたね。たいした「上げ底」で、子どもはあの果物籠から「上げ底」という言葉を習いましたが(笑)。
上げ底って笑っちゃいますね
昔祝いごとで鏡わりをじました。
蓋が最初から開いているのは解かりますが
完璧な上げ底を確認しました。(大笑い)
一生に一度のテープカットは写真があります。
飯田に行かれる意味がわかりました。
飯田市史の戦時編や古老の方が疎開してきた軍需工場を
知っているかなー 多分わからないでしょうね。
昭ちゃん
確かに、昔は上げ底が多かったけれど、最近はそうひどくはないかも。まぁ、経済的なゆとりが出たということでしょうか。
しかし、私は古いことは知りません。まっこと新しい人間ですから(笑)。
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