2014年6月20日金曜日

寒天


糸寒天を常備しています。
以前は諏訪湖あたりで乾燥させた寒天を食べていましたが、数年前から安い韓国産に替えました。


以前は棒寒天を使っていましたが、使い易さでは、糸寒天の方が勝っています。


15グラムの寒天に1500ccの水を加え、中火にかけます。ぐらぐら煮立って、寒天が溶けたら出来上がり。


型や湯呑に入れて固めます。


小さく切って、黒蜜や蜂蜜をかけて。


赤エンドウの塩ゆでを冷凍庫に常備していますが、赤エンドウがないときは小豆を煮たものを乗せたりします。

寒天に味をつけたり、メレンゲを混ぜたりするとより複雑でおしゃれな寒天ができると思いますが、我が家はいつもこれです。夏は三杯酢で食べることもあります。





2014年6月19日木曜日

午年の紅茶缶


カレルチャペックの「イヤーズティー2014」の紅茶缶です。


三色のダーラナホースに虫たちが乗っている絵が描かれています。
お正月ごろからずっと調理台の上のお茶缶コーナーの一角に陣取っています。渋い色のお茶缶もいいけれどこんな明るい色が目に入ると、元気が出ます。


中に入っている紅茶も、なかなかおいしい紅茶です。


茶葉に、マリーゴールド、マローフラワーが入っています。


さんざん楽しんで、紅茶がなくなりかけたころのUPでした。





2014年6月18日水曜日

人形が出てきた!

さがしものをしていました。
文房具ばかり入った小引き出しの中をさがしていると、引き出しが抜けて、中にあったものが引き出しごとぶちまけられて、そこいら中に散らばりました。
「あちゃぁ!」
拾い集めると、中に小さな人形がありました。


まったく見覚えのない人形は高さ3センチほど、人か動物かよくわかりません。
眼鏡を掛け直してよくよく見たら人でした。


持っているのは笛、足にはサンダルをはいています。
笛の先と帽子が欠けているのは、床にぶちまけたとき欠けたのでしょうか。


肩掛けといい、帽子といい、南米のもの、笛はケーナに違いありません。
いったい、いつから引き出しに入っていたのでしょう?全く覚えがありませんが、もしかしたら息子のペルー土産だったのでしょうか?

♪引き出しをひっくり返すと、人形が一つ♪

叩くとビスケットが増える、不思議なポケットの歌を思い出しました。
それにしても、足がとっても大きいけれど、立つバランスといい、表情といい、手慣れた人がつくった人形でした。





2014年6月17日火曜日

『編布(アンギン)の発見』


私はこれまで、アンギン編みという言葉を聞いたこともありませんでした。
「いったいどんなものだろう?」
『編布(アンギン)の発見-織物以前の衣料』( 滝沢秀一著、つなん出版、2005年)を読んでみました。

新潟県の中魚沼地方やその周辺地域の書籍や古文書などの中に、ときおり「アンギン」という言葉が書かれていました。
とくに、鈴木牧之(すずきぼくし、1770-1842)の見聞記、『北越雪譜』と『秋山紀行』 には、秋山郷(新潟県津南町と長野県栄村にかけて広がる、信濃川支流の中津川の中流及び上流地域)の庶民の暮らしに根づいているアンギンの姿が、生き生きと記されていました。

そのアンギンに着目して、探求の口火を切ったのは小林存(こばやしながろう、民俗学研究家、1877(明治10年)- 1961(昭和36年))でした。
小林は1905年明治38年)、アンギンを見つけようと調査隊を組んで秋山郷を訪ねました。しかし、そのときはなにも見つかりませんでした。
以来、アンギンをさがし続けた彼が、やっとアンギンを目にしたのは1953年昭和28年)、さがしはじめてから、50年の歳月が流れていました。見たのは小さな袋ものでしたが、小林はそれを持って、狂喜乱舞したそうです。

その後小林は、「完全なアンギンの実物を見る」、「原料の麻の種類を調べる」、「編み方を研究する」、「器具を発見する」という四つの目標を掲げて、再度秋山郷を訪れます。その時は残念ながら工具が見つからなかったため、依然として制作方法はわかりませんでした。

しかし、これら一連のことが新聞に載ると、いろいろな情報が寄せられました。


その情報の一つの刈羽群北条村の専称寺の「阿弥衣」を見て、小林は、俵編みの経糸(たていと)を巻くコモヅチの小型のものを用いればアンギンが編めることに気がつきました。ここで、アンギン探求は一気に進展したのでした。


1960年昭和35年)、樽田(上越市安塚区)で、若いころにアンギンの制作を体験した松沢伝二郎を見つけ出したことで、長く幻の布とされていたアンギンの全貌は、ようやく姿を現すことになりました。

越後のいくつかの地域では、明治末期まで山野に自生する植物繊維を採取して、それを手づくりの工具で編み、仕事着にしていました。


つくられていたものは袖なし、前掛け、前当てなどの着衣と、袋ものでした。
材料はオ(苧麻(ちょま)、カラムシ)、オロ(アカソ)、イラ(ミヤマイラクサ)、まれにアサ(大麻)やシナでした。

1965年昭和40年)、宮城県栗原郡一迫町の山王遺跡(縄文晩期)でアンギン編みの布の断片が出土しました。そして、それを皮切りに、その後全国各地の遺跡から、アンギンの圧痕、布片、繊維片などが、続々と出土しました。
それにより、アンギン編みは縄文時代中期後半には、ほぼ日本全土に分布していたことがわかりました。そして、ほとんどの地域でアンギンが渡来した織り布によって姿を消した中、越後だけで、ごく近代まで編み続けられていたことがわかったのです。


アンギンの制作者が男性だったということは、興味深いことでした。
何故男性だったか?
その昔、女衆は越後縮をつくるため、夏から苧績み(おうみ、越後縮の糸づくり)に着手しました。そして冬中それを織ったので忙しく、アンギンはもっぱら、農閑期に藁仕事をしている男衆の仕事だったのです。
誰もが、一冬に、一着はアンギンの袖なしをつくっていたそうです。


袖なしは、重いものを背負うとき衣服を傷めないための必需品でした。また、作業着としてだけではなく、風をよく通すので、夏は袖なしだけを普段に着ている人もいました。  


しかし、生活に多用されていたアンギンは、明治初期に早々と姿を消してしまいました。
著者の滝沢秀一さんは、早くに消えたのは、それが男衆の仕事だったからと推測しています。

明治に入る頃から木鉢づくりや木鋤づくりなど木工品の需要が大きくなりました。そして、大正時代に入ると木材の伐採や搬出するための木流し、そして発電工事などに男手は駆り出されて、アンギンづ くりには手が回らなくなってしまったのです。
木工や手間稼ぎで現金収入の道が開けたのと並行するようにして、村々には外部から古着の行商人が入り込むようになり、冬仕事にアンギンをつくる必要はなくなってしまい、やがて忘れ去られてしまいました。


さて、アンギン編みの錘(おもり)のコモヅチの材料で、最も多かったのはタニウツギでした。
タニウツギは、芯のズイを抜くと管状になるので利用しやすかったのです。

私はコモヅチを鳴子と間違えていましたが、この本によると、ある私設資料館には、「コモヅチ」を「ナルコ」という誤った名称で保存しているそうです。あながち、私が買った骨董屋さんだけが間違えていたのでもなかったようでした。


アンギンを編む工具の一部のアミアシは、形よく枝分かれした木を選んで、クサビで半分に割り、ほぞ穴を開けてつくりました。
男たちは山に行ったりするとき、いつも枝ぶりのよい、アミアシに適した枝がないかと心を配っていたようですが、そのさまを想像すると、とてもほほえましい気持ちになります。なんだか見つけたときの嬉しさが伝わってくるようです。
そのアミアシに、経糸を掛ける横木のケタを通して編み機の完成です。

ケタには、経糸を下げるための切り込みを入れました。現在残っているケタを見ると、切り込みの間隔は8ミリ、9ミリのものが最も多く、まれに5ミリ、あるいは1センチ以上のものもありました。


その越後の女衆が苧麻(ちょま、カラムシ)を摘み、それで糸をつくり、機織りもしたという、小千谷縮(越後縮)です。

戦争中に結婚した母は、結婚に際して着物をそろえようにもほとんど売っていなかったそうです。そんな中、母の叔母が奔走してあつらえてくれたという、数少ない着物の中の一枚に、小千谷縮がありました。
母から早くに譲り受けて、若い頃はよく着たものです。


経緯(たてよこ)絣です。


麻の着物だとは思っていましたが、苧麻だったとは、迂闊にも思ってもいませんでした。
もっとも、最近の小千谷では、輸入麻糸を使っているものと思われます。

それにしてもアンギンを男性がつくっていたということに限りなく興味を惹かれます。俵を男性がつくることには何も感じませんが、男性も女性も着ていた袖なしを男性がつくっていたと思うと、なんだかわくわくしてしまいます。


2014年6月16日月曜日

家自慢

 
しばらく前から、築地塀横町(勝手に命名)に、四足門をつくっている家があります。
「あれっ、この家もとから四足門があったんじゃなかったっけ?」
昔の写真を見て見てみましたが、あいにく蔵だけしか写していないので、小さい門があったのか、それともなかったのか、よくわかりません。


それにしても、門はばかでかいし、瓦は「本瓦風」の瓦だし、これから棟瓦を高く積むのだろうし、すごいなぁ。並びの家々を意識しているに違いありません。
どんな老夫婦が住んでいるのか、訪問してみたくなります。


築地塀横町の家々は、家を立派にすることで競い合っています。中には、おばあちゃんの一人暮らしの家もあります。
それでも、築地塀横町では、門だけでなく他の建物も調和がとれているのできれいに見えます。

よく、豪華な築地塀と四足門を建てても、その門の目と鼻の先に納屋の新建材の壁が迫っていたり、四足門をつくったばっかりに、その奥の汚いものをごちゃごちゃ置いた駐車場が目立ったりする家があるのです。






2014年6月15日日曜日

アルマイト


ずっと前に、母から「捨てて」と預かったアルマイトのお鍋、まだ捨てないで持っています。
1960年代まで、日本にはどこをさがしてもこんなお鍋しかありませんでした。

アメリカに行ったときはびっくりしました。
アラビア(フィンランド)、フィネル(フィンランド)、ダンスク(デンマーク)、コクムス(スウェーデン)などの琺瑯のお鍋を素敵に展示しているお店が近くにあって、通りかかるとのぞかずにはいられないほどでした。そんなお鍋に夢中になり、ぺこぺこしたアルマイトのお鍋のことなどは忘れ果てました。

でも、見るとなんとなく懐かしいのは何故?
私はこのお鍋でつくった煮物やおでんを食べて大きくなったのでしょうか?


気をつけて持って行ったはずなのに、アルマイトの弁当箱が傾いて、ノートや教科書がこぼれた煮汁に染まることがありました。
我慢できるのは紙に染み込んだ色ですが、我慢できないのは匂いです。拭いても拭いても、いつまでも匂いました。
憎らしい弁当箱。

でも、今となると懐かしいのは何故?


お弁当箱として使う機会はありませんが、目につくところに置いてあってもいやじゃありません。


安っぽい、ガチャガチャ音がしてすぐへこむ、アルマイトのお皿で子どもたちに給食を食べさすなんて、大人はいったい何を考えていたのでしょうか?
安くて、軽くて、割れなければいいと思ったのでしょう。
こんなお皿では、食べるものも味気ないし、ものを大切にする心も生まれないし、なにより美的感覚が育ちようがありません。

1960年代に、照明の勉強にフィンランドに渡った石井幹子さんは、何が印象的だったかと聞かれて、
「どこの街角のお店でも、松屋のグッドデザインコーナーに置いてあるようなものしか置いてないのに驚きました。汚いものは売っていないのです」
と答えていました。
当時も(そしてたぶん今も)、日本には美しくないものが溢れかえっていました。

そんな給食のお皿ですが、なんとなく懐かしいのは何故?

食事の下ごしらえに重宝しながら、
「どう見ても安っぽいねぇ」
と、お皿に悪口を投げかけています。







2014年6月14日土曜日

裂き織りの布


長椅子に掛けている布は、ぴちっと直しても、すぐくしゃくしゃになります。
座っただけでもしわになるのに、寝っ転ろがってあっちを向いたりこっちを向いたりする人もいますから、いつもきれいに保つためには、せっせと押し込んだり引っ張ったりしなくてはなりません。

『赤毛のアン』シリーズに、きれいに膨らませて置いたクッションにどかっと座って、ぺちゃんこにしてしまう客の話がよく出てきます。
クッションをつぶされたアンはやきもきして、お客が帰った後で、丁寧に叩いて膨らませています。あの時代、刺繍したきれいなクッションは飾りで、家の人はクッションにもたれないようにしていたのでしょうか?
しかし、長椅子は飾りではないので、座らないようにするわけにはいきません。


さて、洗濯するために覆った布を取り替えているとき、しまってある裂き織りの布を思い出しました。
裂き織りは、古い木綿布を裂いて織ったものです。
重い裂き織りの布を掛けたら、もしかしたら皺くちゃになりにくいかもしれません。

木綿は、インド原産のものやペルー原産のものがありますが、日本ではやっと400年ほど昔の戦国時代に栽培できるようになり普及した、新しい素材です。
三河、駿河などの温暖な地域では、綿が栽培されましたが、寒い地方では育ちません。そのため、寒い地方には船で、古い布(サキオリグサと呼ばれた)が盛んに運ばれたのでした。
着古して、もう布としては使えなくなった木綿布を裂いて、それを緯糸(よこいと)として織って、もう一度利用するのは、先人の知恵でした。
 

裂き織りは、地機(じばた)で織られ、地域によっては高機(たかばた)でも織られました。
そして、作業着、帯、夜具などとして使われました。
これは布団でしょうか。綿は入っていませんが裏布がついています。

夜具にするためには、どれほどの布が必要か、織り手は熟知していたのでしょう、全体に赤い布がうまく配置してあります。
 

この藍の部分は、紺絣を裂いたものに違いありません。


紺絣以外には、木綿の着物で絣や模様のものはほとんどなかったのでしょう。模様布はわずかにみられるだけです。


赤い布は少量ですが効果的に使われています。


裏地には紺絣を使い、表地と裏地がずれないよう、糸で何ヶ所も細かく留めてあります。


裏地には、一種類ではなく、いろいろな絣が使われています。細い布をはぎ合わせたところもありますから、これもサキオリグサとして古い着物を購入した中から、比較的傷んでいないものを取り分けて使ったものかもしれません。
 

籠に入れてしまっているだけより、布は喜んでいるでしょうか。


広げていたときはそう目につきませんでしたが、光の加減か、経糸に黒い糸を使って縞模様になっているのが、目立って見えます。


次の日。
おぉ、まったくしわになっていません。

でも考えてみたら、裂き織りは洗濯が大変です。まめに薄い布をきれいに敷き直すか、分厚い裂き織りの布の洗濯を厭わないか、さて、どっちにしようか、ハムレットのように悩む私です。