2016年4月22日金曜日

昔の写真が出てきました

さがしものをしていたら、古い友人Kが撮ってくれた写真が出てきました。
母屋建設中の写真です。母屋は、2006年の11月に上棟して、2009年の4月に入居、約二年半、造作工事が続きました。
この写真はまったく壁ができていないし、足場も残っているので、2007年の写真のようです。
ストーブは備えつけていないけれど、早々と買って用意してあるし、窓も室内に保管してあります。


同じところからは二階の壁があって撮れないけれど、近いところから撮ってみました。


もう一枚はこれ、寝室から、居間の方を見た写真です。
壁がないので明るいこと。左手前の断熱材を入れたビニール袋の向こうは納戸、その向こうが玄関、コンピュータ室、居間と続いています。


今はもちろん壁があって、見晴るかすことはできません。
当時、もちろん家が少しずつできるのは嬉しかったのですが、壁をつくってしまうと景色を切り取るので残念だなぁという気持ちがあったのを、写真を見たら思い出しました。






2016年4月21日木曜日

アフリカの角の木彫り


エチオピアの、木彫りのボウルです。


オモ渓谷のものだと、聞きました。


もう一つ、手のついたのエチオピアのボウルを持っています。
エチオピアに詳しい友人に、誰がつくったものか、何に使うか訊いたことがありましたが、よく知らないとのことでした。
こんなボウルは、小麦のパンを主食とする人たちでも、テフのインジェラを主食とする人たちでも、エンセーテのでんぷんを主食とする人たちでも、それぞれに役立つと思われます。


左は、新しくつくられて、市場で売られていた(といっても、35年以上前)、ソマリアのボウルです。
右のエチオピアのボウルとは木も、形も、大きさも違いますが、持ち手があるところが似ています。近くですから、お互いに、影響し合っていたのかもしれません。


エチオピアは、他のアフリカ諸国の例にもれず、かつてヨーロッパ列強によって分割された多民族国家です。
北の方にはアムハラ人がたくさんいて、南の方にはオロモ人がたくさんいますが、ソマリアと分断されて住むソマリ人を含め、たくさんの、大小の民族グループの人々が暮らしています。

オモ渓谷とは、エチオピアとケニアの国境にあるトゥルカナ湖に流れ込んでいる、オモ川の流域であろうと、ネット検索してみました。
すると、
「なんだ、なんだ!」
オモ渓谷に住む、ムルシ人、スルマ人など少数民族の人々の、あまりにも独創的な装いに圧倒されてしまいました。


少女たちは、泥や花で美しい装飾を施しています。

豆飾りの少年。


唇や耳に輪っかを入れる人々が住んでいる、くらいの知識しか持ち合わせていませんでしたが、すごい!
その見事な装いに圧倒され、しばらくは、ただただ茫然としておりました。


心を落ち着けて、写真の中に木のボウルをさがしてみても、目につくのはひょうたん(かんぴょう)のボウルばかりです。


ひょうたんで器がつくれるなら、木をくりぬいてつくるより、ずっと簡単です。


ひょうたんの、どれも魅力的な器を見ながら、もしかしたらオモ渓谷では木のボウルが使われていないのかと思いはじめたころ、やっと木彫りのボウルを見つけました。


しかも、とびきり素敵なボウル、頭に乗せて運んでいます。
大きさは違いますが、紐をかけるようになっているところといい、形といい、まさしくエチオピアのボウルです。


オモ川を河口までたどると、そこはトゥルカナ湖です。
トゥルカナ湖の周辺に住む、トゥルカナ人たちもまた、木工に優れた人たちで、薄い、素敵な器をつくっています。

アフリカ全体で、木彫りがたくさん見られますが、アフリカの角と呼ばれるこのあたりに住む人々もまた、木工にはとても優れているようです。


さて、検索の副産物で、嬉しい写真を見つけました。
ソマリ人がつくったミルク入れです。これにミルクを入れて、ラクダの背につけてとことこと歩いているうちに分離してバターができるという容器です。

この写真は、ミルク入れを持っている人がソマリ人かどうか調べずに借用して、あとで
「あれっ、誰だったかしら?」
とさがしましたが、残念ながら見つかりませんでした。
ソマリ人も含めて、彼らの多くは移動の民でもありますから、あのあたり一帯で、広範囲に交易がおこなわれていたとは考えられます。


つくって使う。使い切る。
半砂漠の民、渓谷の民の生活が、しのばれます。








2016年4月19日火曜日

すっきりしたいなぁ

ベニカナメの根腐れ病が流行って、このあたり一帯のベニカナメの見事な生け垣が、数年にわたって枯れ続けたピークは、七、八年前だったでしょうか。
我が家でも、ちよさんの畑との境に植えたベニカナメの全滅を覚悟しました。事実、真ん中あたりに病気が出たので、10本ほど抜いて、ドウダンつつじと植え替えました。


ところがどうでしょう?
数年前から病気は下火、我が家のベニカナメも元気です。いずれ枯れるものと、まったく手入れしなかったので、育ちすぎて、うっとうしくて仕方ありません。
胸の高さくらいであってほしいのに、人の高さの二倍以上に育っています。

植え替えたドウダンのわきに、すでに高さを詰めた木が何本かありますが、そのあたりから切ることにしました。いつも手鋸で切っていますが、チェーンソーを使ってみました。ところが、しゃきしゃきと切れません。チェーンソーの刃は、ろくに研いでいないので、切れなくて当然です。
仕方なく、途中から手鋸にしました。


葉が緑色に見えるところが切ったところです。
全部切るつもりではじめたのに、三本くらい切ったら、もう疲れました。でも、
「せめて五本は切ろう。あと一本だけ切ろう」
と自分を励ましつつ、だましつつ、なんとか七本切りました。
でもまぁ、ゼロよりましだったでしょうか。
この調子でも、毎日数本ずつ切っていれば、何日か後には何とかなるのですが、実際には、そうはいかないのです。


切り落とした枝は、軽トラックに一回では乗り切りませんでした。やれやれ。
今年も、後手後手の庭仕事がはじまりました。










2016年4月18日月曜日

狐絵馬で遊ぶ


京都の伏見稲荷の絵馬です。
絵馬は、裏に名前とお願いしたいことを書いて、お稲荷さんに祈願して残してくるものですが、そのままいただいて帰ってきました。ずいぶん前のことです。
もちろん、狐のお顔が描いてあると思っていました。

ところがあるブログで、
「伏見稲荷の絵馬には耳と眉毛しか描いていない。顔は自分で好きに描くらしい」
と書いてあるのを読みました。
「えぇぇ、あれは眉でなくて目だよ」
と思いつつ、そこはネット時代、検索してみました。


いやぁ、あるわあるわ。
祈願された絵馬には、ほとんど顔が描かれています。


いつから、顔が描かれているのでしょう?
伏見稲荷には何度も行ったことがありますが、気がつきませんでした。もっとも、私はうっかり者で、何事も見落とすことが多いので、昔から描かれていたのに気がつかなかったのでしょうか?


それにしても、みんな絵が上手なのにびっくりします。


中には、元々の顔から、完全に自由になっているものもあります。
お稲荷さんが、気分を害している様子もありません。


シンプルな絵馬だから想像力を掻き立て、こんなに楽しめるのでしょう。 こうなると確かに、狐の目は眉にしか見えません。
いろいろな狐の絵馬に出逢いに、いつかまた、伏見稲荷に見に行ってみたくなりました。







 

2016年4月17日日曜日

おもちゃのチャチャチャ


雨風が激しくなるという予報、骨董市の骨董屋さんたちはみんな会場に車を乗り入れて、雨が降ったらすぐしまえる体制で臨んでいました。
そんな日でも、行ってみる私、さわださんの店をのぞきました。
「バケツと帽子は300円、金魚の皿は錆びているから100円」
「高いなぁ」
「帽子は100円にしてもいいけれど、ブリキのバケツは300円から負からない」


なんか、つくるのは、バケツが一番簡単そうなのに、さわださんが、きっぱり言い切ります。


帽子のこの細かさ。
東南アジア製というより、南米製に見えます。


小指にかぶせてみたら、ぴったりでした。
何の草でしょう?細い、細い草で編んであります。









2016年4月16日土曜日

断熱材仕事


作業棟の西側の部分には、二階をつくります。
床を貼りましたが、これは床というより、下から見上げたときの天井、と言った方が適切で、15ミリの薄い野地板ですから、これの上を直接踏むわけではありません。


二階の一部に、12センチ厚の木で、さらに根太をつくりました。この中に断熱材を入れます。


断熱材は、母屋ができる前まで住んでいた、ビニールの仮設小屋の床下に張ってあったスタイロフォームを使います。
仮設小屋を取り壊した後、収納場所はないし、軽いので風が吹けば飛ぶしで、スタイロは厄介ものでしたが、夫が、
「とっておく。何かに役立つ」
と宣言して、とっておいたものです。
土の上に置いてあり、掛けていたビニールシートの屋根も傷んで、ほぼ雨ざらしだったので汚れていましたが、蜘蛛の巣や虫の死骸、トックリバチの巣などを取り除いて、濡れ雑巾で拭いて、乾かしてありました。


これ以外に、作業棟の屋根の下に敷いた、スタイロの切り端もあります。


大工さんが丸鋸のマット代わりに使っていたものも、大切に残しておきました。


これらを全部敷きます。


ジグソーパズルは大好きな私、スタイロは軽いし、働いているというより、パズルをして遊んでいる感覚です。
あらかじめ切ってあったので仕事は簡単でした。隙間があるところには、隙間がたった3ミリほどでも、細く切ったスタイロを詰めました。
一段目が終了したところです。


小さな切り端もほとんど無駄になりません。
つなげるときは、心もち大きめに切って、押し込みます。


二段目に取り掛かりましたが、一日目の時間切れとなりました。
この調子では、手持ちのスタイロで二段目はできますが、三段目の途中で材料がなくなりそうです。
さて、どうするのかなぁ?
母屋に使ったウールの断熱材も残っていますが、これは壁に使うとか、新しくスタイロを買うのか、できるところまで詰めただけにして、蓋をしてしまうのか、残りの作業は夫に訊いてからです。








2016年4月15日金曜日

今戸焼の鉄砲狐


今戸焼の鉄砲狐の一対です。
ヤフーオークションで見て、ついつい実物を見たくなってしまいました。


 一匹は、今戸焼によくありそうな、優しい顔をしていますが、
 

雄でしょうか、もう一匹は、なかなか精悍な顔をしています。


手にしたとき、最初の印象は、
「わぁ、小さいなぁ」
というものでした。


でも、手持ちの鉄砲狐と比べてみたら、顔が小さくて、全体は細いのですが、高さはそう変わりませんでした。
しかし、なぜ、色つけをしていなくて、白いままなのでしょう?


説明には、デッドストックとあり、何セットもあったようでした。
絵つけされないままで、どこかにしまわれていたものでしょうか。


いまどきさん(吉田義和さん)がつくられた、浅草被官さまの鉄砲狐たちは、ひとまわり大きいものです。
もっとも、被官稲荷神社の希望で、ふっくらとつくられているそうです。


いまどきさんのホームページの、鉄砲狐の写真をお借りしてみました。


「いろいろあるなぁ」
いまどきさんのコレクションを見ても、戦前の今戸焼の鉄砲狐の型は一つや二つではなく、窯元によって、作者さんによって、いろいろあったことがわかります。


底の感じは、みんな似ています。
いまどきさんによると、台の低いものが古いものだそうです。
とすると、この彩色していない鉄砲狐は、そう古くないのものなのか?

ちなみに、浅草被官稲荷では、今戸焼の鉄砲狐制作が絶えてから、京都の窯元に鉄砲稲荷を発注していました。
京都の鉄砲狐は、粘土をドロドロにして、型の中に流し込んでつくる、大量生産方式でつくる鉄砲狐でしたが、数年前からそれをやめて、いまどきさんの鉄砲狐を採用しています。
被官さまの社務所は毎月、1日と15日しか開いていませんが、鉄砲狐は浅草神社の社務所で手に入れることができるようです。
いまどきさんの鉄砲狐は、京都の製法とは全く違っていて、一つ一つ、型の中に粘土を貼り、それを合わせて乾かし、型を外して、型の合わせ目のバリを削って仕上げる、大量生産できない方法です。