2016年10月22日土曜日

ウマをつくりました

作業場の軒下のアスファルト舗装ができたので、我が家の三種の神器、万能木工機、テーブルソー、角のみ機を、存分に使えることになりました。
これまで、砕石の上に鉋屑など落とすと掃除するのが面倒で、使えなかったのです。

さて、スライド丸鋸を据える作業台をつくりました。


まず、そろそろ腐りそうな、半端ものの端太角(ばたかく)を探し出してきました。作業台の脚となるウマをつくります。
90ミリ角は削ったら87ミリ角になりました。


ほぞはテーブルソーで、切ります。


テーブルソーの刃を最大に出しても深さが足りないので、後は手鋸で。切り落とします。

  
手鋸で切るのはほんのちょっぴり、昔の大工さんとは比べものにならない簡単さです。


ウマの脚のできあがり。


アスファルトは雨勾配を取ってあるので水平ではありません。
それに合わせて、脚は全部違う長さです。

 
ほぞ穴の写真、撮り忘れました。
ほぞ穴は、短辺は角のみ規格の30ミリで、長辺は端太角の幅より1ミリ少ない86ミリにしました。ほぞの方は、長辺は端太角の幅そのままの87ミリ、短辺は穴より1ミリ少ない29ミリにしました。
これで、かけやで楽々打ち込めるのに、ぴったりとはまることになります。


ほぞ穴の両側と、ほぞには、あらかじめ「こみ栓」を差し込む穴を開けます。
直径15ミリの穴ですから、インパクトドライバーでも開けられますが、手加減で開けるとついつい曲がってしまいます。その点、角のみ機だと安心です。
また、手で開けていると、ちょっとずれたところにドリルを落として開けはじめてしまったのを、正しい位置に戻そうとするのは至難の業というかできませんが、角のみ機だと、ヘッドをちょっとずらすだけで、ミリ以下の微調整できます。


また角のみ機だと、少なくとも左右(この写真だと前後)は、設定した幅はずっと固定されているので、穴の位置がずれにくくなります。


ほぞをほぞ穴に差し込んでみると、別々に開けた穴が、ぴったり合っています。


この穴に、こみ栓を差し込んだら出来上がり、釘は一本も使いませんが、びくともしません。

問題はこみ栓です。十年前にはホームセンターで普通に売っていましたが、今はどこのホームセンターにも置いていません。わずかに大工さんの行く専門店だけで売っていますが、行ってみたらたったの二本しか在庫がありませんでした。注文してきましたが、こみ栓を使う大工さんが全くいなくなったということでしょう。


さて、ウマができたら甲板です。


「これを使ったら」
と夫が引っ張り出してきたのは、仮設ビニール小屋に住んでいたとき、床として使っていた24ミリの厚い合板です。


「うぇぇ、汚いよ」
端には苔が生えて、真ん中あたりに穴も開いています。
「かまやしねぇ。穴はスライド丸鋸を置いたら隠れるだろうが」
しかたがない、サネの部分を切り取ったら、なんとか見栄えもよくなりました。


甲板には枠をつける予定でしたが、これだけ厚みがあれば、枠をつけなくてもたるみません。
 

じゃぁん。
スライド丸鋸を置きました。やれやれ、これで横挽も簡単になりました。


あれあれ、後ろには、集塵機へとつなぐホースが接続されています。


開閉するシャッターまでついています。
怖くて、夫にまだ聞いていませんが、ちょっとスライド丸鋸を使うときも、いちいち、集塵機のスイッチを入れなくてはならないのでしょうか?






2016年10月21日金曜日

六ヶ所村

長男が、有料の(会員制)のメールマガジンをやっています。
いろいろな事象について書いているのですが、今日は六ヶ所村について書いていたので、そのまま転載してみました。


先日、事務所のスタッフと話していて、どういう流れかは忘れてしまったが、六ヶ所村の話になった。ぼくが、「ああ、六ヶ所村みたいな感じ?」と言ったのだ。
すると、彼女にこう尋ね返された。
「六ヶ所村ってなんですか?」
それでぼくは、「えっ?」となった。とても驚いた。

そして、自分が驚いたことによってさらに気づかされた。それは、ぼくはこの世に六ヶ所村を知らない日本人がいるとは想定していなかった――ということだ。六ヶ所村は誰もが知っていると思っていた。

そこで、FacebookとTwitterで呼びかけてみた。六ヶ所村を知らない人がどれだけいるのか?
「六ヶ所村を知っていますか?」
すると、Twitterでは4割の人が知らないと答えた。Facebookではもっと少なかったが、これはぼくの友人に限られた結果なので、かなりバイアスがかかっているだろう。ぼくより若い人――例えば10歳以上若くなると、とたんに知らなくなるのである。

そこで今日は、六ヶ所村について書いてみたい。ぼくがなぜ六ヶ所村を知らない人がいることに驚いたかを知ることは、今の日本の現状を知るいい手かがりになると思うからだ。
 

では、六ヶ所村とはどういうところなのか?
六ヶ所村とは、青森県の下北半島にある地区だ。本州のほぼ北端(厳密には北端より少し南)に位置する村であり、極寒の地として知られる。いうなれば、日本の最果てのような場所だ。

そのような場所に、日本最大の原子力施設がある。なぜあるかといえば、六ヶ所村がそれを受け入れたからだ。
六ヶ所村は極寒の地で、ろくな産業がなく、人々は貧困に喘いでいた。そんな状況を改善しようと、核廃棄物の貯蔵施設をはじめとして、原発の中でも最もえぐい施設の受け入れを決めたのだ。


その結果、六ヶ所村はどうなったか?
国からたくさんの金が下りるようになり、一気にお金持ちの村へと転じた。道路をはじめ、近代的な設備が整うようになった。
それは、かつて極貧だった極寒の村としては劇的な変化だった。今では何もない雪原に突如UFOが舞い降りたかのような、一種異様な雰囲気を醸し出している。

その光景を見ると、逆説的に「原子力がいかにヤバいか」というのがよく分かる。人々が、いかに原子力発電施設を恐れているか。忌み嫌っているか。そしてまた、それを受け入れる代わりに彼らがどれだけの莫大なお金を手に入れたか。恐怖と莫大なお金とがトレードされたというのが、六ヶ所村の景色の中に象徴的に現れているのである。
 

六ヶ所村は、いうなれば日本の肥だめだ。原子力のうんこを半永久的に保管しておく場所である。
そのため、もし何か問題が起きたら、永遠に回復することはないだろうといわれている。いや、六ヶ所村にもし何かあったら、それこそ地球そのものがダメになるかもしれない。それくらいのレベルのヤバいものを、六ヶ所村は引き受けているのである。そして、それを引き受ける代償として手に入れたお金で、道路や村の施設を作っているのだ。

その意味で、六ヶ所村の景色は、日本の経済や過疎の問題についても考えさせられる。土地の格差というものをまざまざと見せつけられる。

核は、怖い。何が怖いかといえば、よく分からないところが怖い。福島原発の事故にしたって、発生から五年が経過しても、まだ侃々諤々の議論が交わされている。ということは、とりもなおさずそれは「分からない」ということなのだ。現代の英知を集めても、どういうことになるのか皆目見当もつかないのである。

その皆目見当もつかないものが、福島の数倍、いや数十倍詰め込まれているのが六ヶ所村である。それは、いうなれば「モスト分からない場所オンザプラネット」だ。世界で一番分からない場所。六ヶ所村は、それを自ら引き受けたのである。道路や施設を建てるため、そしてそこで人々が裕福に暮らしていくためにである。

六ヶ所村は、他のどの寒村も怖くてできなかった、「日本の肥だめになる」という選択をした。
では、なぜ六ヶ所村はそれをしたのか?
これは、ある人にいわせると、青森の風景に原因があるのではないかという。

下北半島の景観は、「極寒の地」あるいは「最果ての地」というのがふさわしいくらい、荒涼としている。特に冬の吹雪の夜などは、その情景が見る者の胸に突き刺さってくる。

それはまるで、「絶望」をビジュアル化したもののようにも思えるそうだ。「荒涼」という言葉を絵にしたような景色なのだ。
『ゲド戦記』という小説に世界の果てが出てくるが、それは六ヶ所村にそっくりなのだそうである。

そういうところにも人が住み、日本の肥だめになるという選択をした。
六ヶ所村は、その意味では「人間とは何か?」を考えさせられるとても重要な場所なのだ。
ぼくが子供の頃は、学校では盛んに六ヶ所村のことが語られていたし、その来歴は一度聞けば一生忘れられないほど胸に差し迫ってくるものがあった。

だから、六ヶ所村は誰もが知っているはずとぼくは思っていた。しかし、それは勘違いだった。六ヶ所村のことは、今はもう誰も教えなくなってしまった。なぜかは分からないが、いつの間にそうなっていたのである。





2016年10月20日木曜日

謎の錘

三年ほど前に、骨董市で見つけた磁器の輪は、織物道具の部品ということでした。
先日、我が家の展示室でこの輪を見た人から、
「これは何ですか?」
と訊かれたのですが、織物道具の部品らしいとしか答えようがありませんでした。


ところがそんなことがあってすぐに、骨董市で同じものを見かけました。
籠に入っていて、「2個で100円」と張り紙してあったので、2個一緒に売るためにまとめたのかと、深く考えもせず買って来たのですが、家で見ると、昨日今日結わえたものではなさそう、結わえた糸は、擦り切れそうになっていました。
二個まとめて使っていたのでしょう。


以前見つけたものには、「十二」、「二十五」と書いてありましたが、今度見たものは、「二十」を二つ結わえたものと、「二十」と「十二」を結わえたものでした。


以前からある「十二」と新たに買って来た「十二」は、同じ大きさです。
試しに重さを計ってみたら、「二十」+「二十」=154グラム、「二十」+「十二」=120グラム、「十二」=44グラム、「二十五」=97グラムでした。
一匁は、3.75グラムですから換算すると、それぞれ150グラム、120グラム、45グラム、93.75グラムになるはず、誤差があまりありません。
とくに、「二十」+「十二」はぴったり合っています。


よく見ると、「二十」+「十二」は、磁器をわざと欠いたような跡がありました。
それほどまでして正確を期した錘って、いったい何に使ったのでしょう?
私の中で、この錘はますます「謎」になってしまいました。






2016年10月19日水曜日

玄能+バールの収納台


半年ほど前に、鉄作家の須知さんにお願いしていた、玄能とバールを収納する台ができてきました。
端正な形で、室内に飾っておきたくなるくらいです。


上部の、玄能やバールを差し込む部分は、いろいろなサイズの玄能やバールに対応できるよう、手前の方が少し狭くなっています。


これまで、須知さんの工房で見た収納する台を真似て、端材でつくったものを使ってきました。
ところが、木製だと、なかなか解消できない欠点があります。


上部に、細い鉄板ではなく木を使うと、バールが不安定に収まり、うっかりぶつかったりすると、すぐにくるっと90度回転して、開口部から滑って落ちてしまいます。重いものですから、がちゃがちゃと落ちるとうっとうしいものでした。
仕方なく、バールを差すところは、板を当てて細くして、落ちにくくしてみたのですが、万全というわけではありませんでした。

また、木の台では、台そのものが軽いので、重いかけやや玄能を収めると、頭でっかちで不安定になります。底に、重くて太い木材を使う手もあるかもしれませんが、図体が大きくなって場所を取ってしまいます。


その点、鉄だと上部が薄いので、玄能もバールも収まりやすく、安定感があります。


だがしかし、ちょっと小さかったかなぁ。
小さいバールはもともと落ちやすいので引き出しに入れているのでいいとして、これで満員。木槌の一部やゴム槌は、収める余地がありません。


ま、木槌、ゴム槌の収納場所は別につくるか。






2016年10月18日火曜日

made in Japanのキューピーさん


骨董市で、玩古さんのおやじさんの店に手のないキューピーがありました。
あれあれ、手がなくなってしまっている! でもよく見たら、取れた手も置いてありました。 それなら直すこともできるでしょう。


さっそく、着ていたリリアンで編んだ服を洗おうと、太いお腹をくぐらせて、苦心して脱がせてみました。すると、細い肩紐は別として、裏は薄汚れていません。このくらいなら裏返せば十分なので、洗わないで裏返して着せることにしました。


次は手の修理です。


手に残っていたものを取りだしてみたら、マッチ棒のような木片でした。黒いものは年月が経って、硬化したゴムだか何だかわからなくなっていますが、この黒いのが身体の方にも貫通していて、それは取ろうとしたら内側に落ちてしまい、振るとからから音がするようになってしまいました。
子どもが苦心して直そうとしたものでしょうか?それとも、ぶきっちょな大人?

普通、キューピーはゴムで手を胴体に留めます。
手の方に開けてあるゴムを通す穴は小さいものなので、結びこぶをつくって、針の尻などで押し込むと抜けなくなるのですが、これは木片を無理やり押し込んだりしたので、穴が大きく広がってしまっています。
「留まるかなぁ」


大きな穴に合わせて大きな結びこぶをつくる必要がありますが、手持ちの太めのゴムは引く力が強すぎます。迷ったけれど、細いゴムを使用、端はゴムを二本にして結び、穴に押し込んでみました。


よかった、直りました。


背中には、made in Japanの陽刻があります。
ちょっと立ちにくく、傾いではいますがなんとか立ちました。
「あっ、直ったんだ。でも顔がなぁ。ちょっと」
遊びに来ていて、一部始終を見ていたシャントヌが笑いますが、この顔、もしかしたら戦前の顔でしょうか?大きすぎる目、八の字眉、泣きそうなそして年寄りのような口元。

私が持って遊んだ1950年代のキューピーは、輸出用ではなく国内向けのものでしたが、眉も八の字ではなく、もっと今の「かわいい」に近いお顔をしていました。
それにしても、羽が背中ではなく、耳の下にまるでもみあげのように生えているのは、ちょっと変でしょうか?

追記:
戦前のものかどうか知りたいと、ヤフーオークションを見たら、
「わぁ、高い!」
軒並み、10,000円以上の値段がついています。
ちなみにこれ、1,000円でした。







2016年10月17日月曜日

楽しい週末

週末に、友人の息子シャントヌが遊びに来ていました。
彼とは、彼が生後数ヶ月のときに初めて、南インドで会った関係ですが、あれから四半世紀の時間が流れ、25歳の青年に成長しています。

シャントヌは、オランダの大学院で二年間農業を学んだあと、日本かインドで仕事につくはずでした。
ところが、日本に帰国後、大学時代の先生の紹介で、ドイツの学校の研究プロジェクトに参加することがばたばたと決まり、来月から三年間ドイツに行くことになりました。博士号が取れ、その間給料も出るという、願ってもない話です。
彼は、ヨーロッパで農業を学ぶことの限界を知りつつ、チャンスが与えられたので、もう少し学んでみようと決心したようでした。


彼のオランダでの体験談には興味深い話がたくさんありましたが、その一つに、大学の先生の一人の研究課題が、アフリカから奴隷としてアメリカ大陸に連れて行かれた人たちが、アメリカ大陸の植物をどう「発見」して、どう馴染んだかというものがありました。
さすが、植民地を多く持って、三角貿易にもかかわったオランダ人の末裔の発想することです。

奴隷として連れて行かれた人たちの中で、植物の知識があった人は、降り立ったアメリカ大陸で初めて見た植物でも、食べられるか食べられないか、薬草か毒草かという勘が働きました。
そんな人たちは、隙を見て逃げても生き延びることができると確信していて、事実逃げた人もいたそうです。
また彼らは、持ってきたり手に入れたりした野菜の種を蒔いて育て、食生活を豊かにして、飢えることなく生き延びてきましたが、植物に対する知識のない人は、やすやすと奴隷にされ、逃げることもできず、死んでいきました。

マレーシアのタマンネガラ国立公園

その話を聞いて、思い出すことがあります。
1990年代の初めに、タイ人たち三人を連れてマレーシアのサラワクの熱帯林の中を二時間ほど歩いたことがありました。歩く予定で行ったのではなかったのですが、目指す村が川べりから内陸に移動していたのです。

サラワクに一緒に行ったタイ人は、一人の同僚と、ブリラム県でユニークな村づくりをしている村長さん、そして英語とタイ語の通訳をお願いした地方都市の大学の先生という構成でした。重い荷物を持って、踏み固めただけの森の中を歩くのですから、タイ人たちにとっては結構大変でした。とりわけ、海外が初めてで、歩くことしか交通手段がないことをを想像もしていなかった村長さんは、歩きなれたサラワクの人について行くのがとても辛そうでした。

さて、ふと見ると同僚のKが、道端のきのこを採って、そのまま食べています。
彼にとってサラワクは生まれて初めての地、植物に造詣が深いと言っても、赤道直下の熱帯多雨林と、タイ東北部のような乾季のある乾燥林とは植生が違います。
「わぁ、やめてよ。毒きのこだったら死んじゃうよ」
と言うと、彼は、
「これを食べて死んでしまうようなら、僕はとっくに死んでいるよ」
と言って、全部食べてしまいました。もちろん、彼は何ともありませんでした。

そのとき私は、第二次大戦中、たくさんの日本兵が密林の中で餓死したことを思いました。
熱帯林に足を踏み入れる前は、私もそれを哀れなことだったと認識していましたが、じつは熱帯林は餓死するところではないのです。食料の宝庫であり、薬草の宝庫なので、植物の知識と、さらに動物を獲る知識があれば、熱帯林の中では、人は十分に生き延びらます。
現に、横井正一さんをはじめ、日本人でも生き延びた方もいらっしゃいました。また、たとえ、自分に植物の知識がなくても、そこに住む人たちと人間関係をつくれば学べることでもあります。
人が生き延びるためには、まず自然との関係がたいせつであり、同時に人間との関係もたいせつなのです。

現在のサラワク
   
生まれたときから、大都会で食べるものをお金で買う生活を送って来た人は、自然と切り離されているので、土や昆虫などの自然と馴染めません。しかも、コンピュータや携帯電話、スマートフォンなどの発達で、機械とは馴染んでも、人間との関係も希薄になっています。
でも、生きることの基本は食べることです。それが自分の手の中にあるか、まったく人の手にゆだねてしまっているかでは、生きる自信が違ってくるような気がします。


昨日、「八郷暮らしの実験室」の面々などが中心になって、「八豊祭(やっほうさい)」が開催されました。
お天気に恵まれ、歌や踊りあり、無農薬野菜の美味しい食事あり、落語あり、山里暮らしの講演あり、と濃い一日でした。
 
 
馬喰町バンドのわらべ歌に乗せて、88歳の北川馬骨さんの書のライブもありました。
これからの、よりよい生活をみんなで考えた日でもありました。







2016年10月15日土曜日

牛乳サンプル検査箱


松の木の箱、スウェーデンのものです。
「用」だけのためにつくられた箱なので、そっけないことこの上なしです。
この箱は、牛乳のサンプル検査箱で、十九世紀の終わりから二十世紀の初めにつくられて、使われたものです。


革の持ち手は、たぶん、箱を重ねても使えるよう、一方を固定させ、一方は細いバンドをくぐらせて、伸ばしたり、畳んだりできるようにつくってあったもののようです。ところが、革がボロボロになって、持ち手を留めていた細いバンドが切れてしまったため、今では留めてなかった方も固定して、釘が打ってあります。

 
留め金の受け金具が、左右で違っています。
どちらが元の姿でしょう?左は頭の丸いねじ釘、右は小さなヒートンです。
手間いらずにできていて、蓋を閉めるとき、閉まる直前に留め金にちょっと手を掛け、閉まったところで手を放すと、すとんと自動的に留め金がかかります。


中には仕切りがしてあって、ビンを全部で16本収めることができます。

 
持ち運ぶという用途のため、軽くしようとどの板も薄くできていますが、一世紀前の当時、どんな道具で、板を薄く削ったのでしょうか?


ビンは型に入れてつくったもので、型を取り外したときの線が、両脇に残っています。


そして、弓がたにA-B.SEPARATORと、下の方には、STOCKHOLMと陽刻があります。
スウェーデンで使われたものなのに、どうして英語で書かれているのでしょう?
  

牛乳を分離させて検査するとは、いったいどんな検査だったのか、想像もつきません。
二、三のビンは、ミルクをよく洗わなかったのか、白っぽさが残っています。

牛乳のサンプルは、この箱をいくつも積み重ねて、馬車で検査場に運ばれたのでしょうか?
一つ一つのビンに、砂や微小貝を入れたら楽しいだろうと思っていましたが、入れないままで月日が過ぎています。