織物の先生だった近藤由巳さんとはこんこんギャラリーを通じて、20年以上前から知り合っていましたが、4年前に、長年畳んであった織り機を組み立てようとしたとき、綜絖(そうこう)と踏木の結び方がわからなくて、見てもらったのをきっかけに、より親しくなりました。
綜絖とは、織り機の経糸(たていと)を通しておいて上げ下げする部品で、踏木と連結させておきます。所定の踏木を踏むとその綜絖に通した経糸だけが上がって、上がった経糸と上がっていない経糸の間に緯糸を通すことができる、織物の根幹をなすものです。
踏木も綜絖も、最低で2つずつで代わりばんこに上げ下げすれば、平織りの織物はできます。しかし、いろいろな織り方をしようとすると、最低6枚の綜絖と踏木をセットしておく必要があり、8枚の綜絖と8本の踏木をセットしておけば、より織り方の範囲が広がります。
上の写真は、かつて織物を習った時のノートです。なんてきれいな昔の私のノート! 今では、どんなに努力しても、別人のごとく汚いノートしか取れません。
織物の組織図ですが、左下は綜絖への経糸の通し方です。そして、右下が招木(横木)と綜絖、そして踏木の結び方。平織の場合、綜絖は2枚でもいいけれど、経糸がくっつきすぎるので、綜絖を4枚使ったのが最下段の左の経糸の通し方で、右下の結び方で、たいていは平織でも4枚綜絖で織ります。
綾織となると、綜絖4枚、踏木4本となり、結び方は右下のようになります。
招木も踏木も設置していない状態 |
私の織り機は「天秤仕掛け」というスタイルの織り機で、1970年代半ばにノルウェーから輸入したものです。
当時は手仕事が顧みられていなかった時代で、各家庭の日本古来の着尺を織る織り機は、納屋で埃をかぶったり、邪魔だからと燃やされたりしていました。
私が最初に織り物を習ったFさんは、ノルウェーで織り物を学ばれた方でした。日本には、私の学生時代は、織物が習えるところが倉敷の民芸館だけ(女子美にもなかった)で、民芸館では4、5人の生徒さんが1年間住み込みで習っていました。民芸館長として外村吉之助さんがご存命のころでした。
幼児を2人抱えて、家でパッチワークなどしていた私は、学生時代の友人に、織物を教えている人がいると聞き、紹介してもらって下北沢にあったFさんのアトリエに通い始めました。以後、タイに引っ越すまで、5年ほど通いましたが、そのアトリエは駅に近い民家の二階で、当時の下北沢は古い家ばかりで、アトリエもお手洗いは汲み取り式という時代でした。
日本製の織り機は流通していなかったので、織り機や紡ぎ車はノルウェーから取り寄せてもらい、整経機などは、日本の職人さんに特注してつくっていただいたものを使い、毛や麻の糸もノルウェーに発注して取り寄せてもらっていました。
タイに引っ越すときは、織り機一式を持って行くほど織り物は生活の一部になっていましたが、タイへのインドシナ難民の流入を契機に結成されたNGO(当時、日本にはNGOがなかったので、ボランティアグループとは思ったけれど、NGOだとは思ってもみなかった)に参加して毎日のように出かけることになり、織物の方はそのままになってしまいました。
さて、近藤さんは教室に織り機を3台、ご自分用に1台持っていらっしゃいましたが、どれも日本製で、それぞれ別様式で別サイズの織り機で、その中に天秤仕掛けの織り機はありませんでした。
そのため、私の織り機の結び方は近藤さんもすぐにはわからなくて、いろいろな織り機が載っている資料を貸していただき、コピーさせてもらいました。
まず、天秤と綜絖を結び、それを招木(まねき、横木)に結び、それを踏木に結ぶのですが、40年のブランクは大きく、四苦八苦しても結びきれませんでした。
これがその結び方です。
というわけで、私の織り機はいまだ結びきれていないまま、ずるずると年月を重ねていますが、2年ほど前に、
「よかったら、教室に来る?」
と、近藤さんに誘っていただきました。それまで、私が「習おうかなぁ」と言うと、「いやいや、習わなくていいでしょう」と返され、私の方も忙しくて余裕もなかったことから、そのままになっていたのです。
通い始めてみると、一言で織物というものの、私が習った織物とは違うものでした。
スウェーデンの伝統織物、フレミッシュ |
私が習ったのは、おもにタペストリーと呼ばれる飾り布を織ることだったと思われます。
これは、織り方としては簡単だけど意匠が大事な綴れ織り。緯糸しか見えていない |
糸紡ぎもしましたが、市販の糸で織るのが主でした。ノルウェーの羊毛糸も麻糸も、日本にはない色と質で、糸見本を見るだけで、わくわくしたものでした。
近藤さんの作品の昼夜織り。主に経糸が見えていて、裏は反対の色となっている |
織物は、市販の糸を使ったとしても織り機に糸をかけるまでの工程がたいへんで、織るという作業は、エネルギーでいうと織物全工程の20%くらいのものですが、原毛から織るとすると、織る作業は10分の1以下にも満たないものでした。
1970年代までは、日本で羊の原毛を糸にして織っていたのは、岩手のホームスパンと北海道のユーカラ織り(アイヌの織りではなく、個人の織りなので、現在は優佳良織と改名)くらいしかなくて、ほかの場所に住んでいる者には、原毛は手にも入りませんでした。
上の写真は右が盛岡のホームスパン、左がユーカラ織りの、夫のネクタイです。
今や、スピニング(糸紡ぎ)や手織りは広まり、羊を育てる人が増え、日本製の性能のいい織り機や、紡ぎ車がたくさんつくられ、売られています。
それはひとえに、近藤さんの先生たちの世代や近藤さんの同時代の方たちの、手仕事に対する情熱のたまものだったと思われます。
近藤さんがお元気だったら、私はいまごろ昼夜織り(表と裏が別色になる)に取り掛かる予定でした。
手紡ぎ糸だと、どうしても太さに差が出るので、経糸にそれをうまく配置し、緯糸にはできるだけ同じ太さの糸を使う必要があります。それを近藤さんが配置を考えて、糸量を計算してくれて、整経(経糸を整えて織機に掛ける)すれば織れるばかりになっていました。
昼夜織りの綜絖通しと足の結び方 |
近藤さんを失ったことにより、その工程は暗礁に乗り上げてしまいました。
自分の織り機で織るとなると、まず放置したままの結びを完成させなくてはなりません。
こんな状態から、織るところまで到達できるかどうか、ちょっと難しそうです。
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